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地球最後の男 オメガマン(1971)

 

 

題名 地球最後の男 オメガマン (The Omega Man)
原作 リチャード・マシスン 『吸血鬼』 1954年 → 『地球最後の男』 → 『アイ・アム・レジェンド』 へと改題
監督 ボリス・セイガル
出演 チャールトン・ヘストン、アンソニー・ザーブ、ロザリンド・キャッシュ
上映時間 98分
制作年 1971年
制作国 アメリカ

 

 

中ソ細菌戦争が起こり、人類は感染症であらかた死亡。生き残った人類は、皮膚から色素が失われ、白い皮膚、白い髪、白い目、皮膚には赤い瘡蓋で、黒づくめの衣装に身を包み、光を恐れる夜行性に変異していた。

一方、軍の科学者であったネビルは、自分が開発したワクチンを接種し、たった一人健康体で生き延びている。ネビルを逆恨みした変異者たちはマサイアスをリーダーに徒党を組み、夜な夜なネビルに攻撃を仕掛けてくる。毎晩それを撃退するのがネビルの日課だ。

そんなある日、ネビルがマーケットで物資を漁っていると、黒人女性リサと出会う。彼女はネビルと同じ、普通の人間だった。リサは元医学生のダッチと8人の子供たちと共に郊外で暮らしていたが、弟のリッチーは発症し、間もなくマサイアスらと同じく変異者になってしまう。

ネビルは自分の血液から血清を作りリッチーを救うが、マサイアスらの攻撃は日に日に増していくのだった。

 

 

映画『地球最後の男(1964)』を見て、原作小説『地球最後の男』を読んでからの視聴。『十戒(1956)』とか『ベン・ハー(1959)』などの超大作のイメージが強いチャールトン・ヘストンが、急速にSF化していく頃の作品。『ソイレント・グリーン(1973)』は心底大好き。

 

しかしこれはよろしくない。駄作だと思う。原作の改悪。

まず “地球最後の男” でもなんでもない。最初、人っ子一人いない大都会にチャールトン・ヘストンがただ一人、車を走らせ、街を歩くシーンを用意し、「世界にただ一人だけ」っていう感じで始まるのはエモい(画面の奥の方を良く見ると、トラックが走っているのは仕方ないけど残念)。

ところがすぐに黒人女性、白人男性、子供たちが出てくる。女と子供は「男」じゃないから題名に偽りなしってことなのかと思いきや、普通に成人男性も出てくる。全然 “地球最後の男” じゃないじゃん。

 

そして吸血しない。吸血鬼じゃない。顔が白くなって夜行性になっただけ。

 

そしてなにより、感染者たちの覚悟が違う。

マサイアスらがネビルを攻撃する武器は弓矢や石、投石機で打ち出す火の玉だった。どうやら彼らは自分たちをこんな目に合わせた科学文明を憎んでいて、中世の生活に戻ろうとしているらしい。だから彼らは、自分だけ感染することなく、現代的な生活を維持し、マシンガンを使って反撃してくるネビルを敵視しているのだ。

そうかと言って、今の自分たちの在り様を納得している訳でもない。ネビルを攻撃するのは、結局は「あいつだけ許せない」みたいな嫉妬なのだから、かつての自分に未練があるわけだ。

ネビルの血液から血清がとれて元に戻れると知っても喜ばないのは、ミュータントとしての自負ではなく、ただの自己保身だろう。血清なんか出来たら、今の自分の地位が無くなる。例えミュータントの小グループだとしても、今現在の地位を失いたくない。

 

でも原作や1964年版の感染者たちは違った。彼らは感染後の自分たちの在り方に納得し、新しい人類としての社会を築きつつあって、元に戻ろうという気はなかった。振り切れている。

だからこの作品を読んだり見たりした人たちは “価値観の転覆” “常識の危うさ” を感じ、衝撃をうけた。クリエイターたちに大きな影響を与え、フォロワーも沢山出るような作品になった。

今作のマサイアスらは着ている服も “黒いKKK” だし、結局は独特に自己完結しているだけの、中途半端なカルト教団でしかない。

これじゃあ、共感も衝撃も得られない。チャールトン・ヘストン主演の割に演出もチープで滑稽だったし、だから駄作、ということで。

 

 

地球最後の男 オメガマン(字幕版)

地球最後の男 オメガマン(字幕版)

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