- 映画『続・光る眼/宇宙空間の恐怖(1964)』のデータ
- 映画『続・光る眼/宇宙空間の恐怖(1964)』のあらすじ
- 映画『続・光る眼/宇宙空間の恐怖(1964)』の予告編
- 映画『続・光る眼/宇宙空間の恐怖(1964)』の感想
映画『続・光る眼/宇宙空間の恐怖(1964)』のデータ
題名 続・光る眼/宇宙空間の恐怖(Children of the Damned)
監督 アントン・M・リーダー
出演 イアン・ヘンドリー、アラン・バデル、バーバラ・フェリス、クライブ・パウエル
上映時間 90分
制作年 1964年
制作国 イギリス
映画『続・光る眼/宇宙空間の恐怖(1964)』のあらすじ
知能テストで通常では考えられない成績を叩き出した少年ポール。遺伝学者トムと遺伝学者デイヴィッドがポールの母親に話を聞きにいくが協力を得られない。
しかしその直後、母親は車にはねられ全身骨折で入院してしまう。彼女は見舞いに来たトムとデイヴィッドに、「自分は処女でポールを産んだ」と証言する。トムとデイヴィッドが一人ぼっちになったポールを訪ねると、家には母親の妹スーザンがいてポールの面倒を見ていた。
その頃国連は、ポールと同じ成績を叩き出した子供5人をロンドンに呼び寄せていた。遺伝学的にあり得ない確率であることをいぶかしんだデイヴィッドは、トムと共にその5人の出生を調べ始める。するとどの子も父親がいないことが発覚する。
そして子供たちの価値に気付いた各国による、子供たちの奪い合いが始まる。それを察したポールは超能力を使って大人たちを混乱させ、その隙に逃走。テレパシーで感応し合う子供たちは、ひとり、またひとりと合流していく。
するとスーザンまでもが姿を消してしまう。子供たちにおびき寄せられたスーザンは、廃墟になった教会で子供たちの面倒を見はじめる。
スーザンのいる教会を突き止めたトムは、政府の役人を連れて戻ってくる。しかし彼らは子供たちのテレキネシスで簡単に殺されてしまう。軍も登場し子供たちと対峙するが、子供たちの持つ謎の新兵器によって皆殺しにされる。
新兵器の威力を見たデイヴィッドは子供たちを抹殺しようと意見するが、トムは保護するべきだと主張し、意見が分かれる。トムは子供たちを救おうと単独で教会に乗り込み、子供たちの説得を開始。一方でデイヴィッドの説得も続けていた。
トムの「話し合って和解するべきだ。敵意のないことを人間に知らせろ」という意見を受け入れた子供たちは、それぞれ大使館へ向かう。しかし政府の二枚舌を見抜いたポールは政府高官たちを操り、お互いを殺させ合う。
政府の高官が殺されたことで事態は悪化。軍が教会を取り囲み、教会ごと子供たちを爆破しようと動く。
そんな中、子供たちが数百万年後の未来から来た人類であると気づいた科学者ハリブが、子供たちと話し合うべく教会へ向かう。ポールは「人間は愚かだ。勝手に殺し合えばいい。僕たちは違う道を行く」と宣言し、子供たちはみな手をつなぎ合う。
歩み寄りが進むかと思われたその時、一人の軍人のミスで総攻撃の合図が出てしまう。一斉に攻撃される教会と子供たち。命令の取り消しも虚しく、子供たちはみな撃ち殺される。
映画『続・光る眼/宇宙空間の恐怖(1964)』の予告編
映画『続・光る眼/宇宙空間の恐怖(1964)』の感想
これは色々考えさせられる作品だった。出来がいいのか、悪いのか、実に惜しい作品だと思う。
映画の趣旨としては、
「戦争ばかりしてお互いを殺し合う愚かな人類を改めるために、数百万年後の未来から送り込まれた子供たちがいたが、現代の人類はやっぱり愚かなのでそれに気づかず、それどころか自分たちの都合のいいように利用しようとしたために子供たちに愛想をつかされ、さらに愚かなことに彼らを抹殺してしまったので、人類は平和への道を大きく後退させることになってしまいましたとさ」
という話なのだろうと思う。
この少年たちは、殺し合う人類に警告する平和の使者で、彼らが持つ新兵器および彼ら自身が、この映画が作られた1960年代に大問題になっていた原爆・水爆の象徴というわけだ。
でも最初に私はこの作品を、前作『未知空間の恐怖/光る眼(1960)』の続編として見てしまったので、子供たちの見た目が大きく変わっていることに軽く失望した。
前作の子供たちは全員が白人で、「プラチナ・ブロンド」「青い目」「似た髪型」「同じくらいの背丈」「同じ服装」と、まるでクローンのようで、それが整列して、同じ行動、同じ思考を共有しているところが得体のしれない感じで怖かったのに、それが一転して見た目は普通の子供たちになってしまっているのだ。
今回の子供たちは今風に言えば多様性があって、白人、中国人、インド人、中東、アフリカ系、という具合に人種がバラバラ。だから当然、髪の色も目の色もバラバラ、服装もバラバラなので、見た目の統一感がない。
これじゃ得体のしれない怖さが全然ないじゃん、、、と私は思った。
でも、今作の趣旨を考えると、子供たちの見た目が前作とは大きく変わっていることが理解できる。
映画のラストは、人種の違う子供たちが皆で手をつなぎ合うという、「人類みな兄弟」みたいなメッセージになっていて、このメッセージに持っていくためには、全員白人ではできないわけだから、この設定は必要だったのだと思う。
つまり、これは前作の続編ではなく、リメイク作品として見るべき作品だったのだ。
前作はエイリアンが人類の女の腹を経由して登場し、人類の存在を脅かす「エイリアン系」の作品。
今回は未来人が現代人の女の腹を経由して登場し、人類に警告する「地球の静止する日・未来人版」の作品で、趣旨が全然違うのだ。
しかしそうだとすると、この数百万年後の未来人は相当頭が悪いというか、お粗末だと思う。せっかく未来から人類に警告するために来てくれたのに、その手法がお粗末すぎた。
まず、未来人がピュアで短絡的すぎる。
ラストの方で、「欺瞞に満ちた二枚舌の大人 vs 純粋な子供たち」という構図になり、「大人はずるい、汚い。だから殺してもいいんだ!」と思った子供側が暴走し、子供たちが暴走すれば大人たちも更に強権を持って弾圧するという展開は、未来人側があまりにも短絡的だったと思う。
「大人はずるい!汚い!」→「殺す」はないわー。極端すぎる。
最初の方でも母親に「お前なんか生まれた時に殺しておけばよかった」と言われたポールが、超能力で母親を車に轢かせて全身骨折で病院送りにしていたけど、やりすぎなのよ。
酷い母親だけど、そうだとしてもやりすぎだし、未来から来て勝手に人の腹を拝借して生まれてきた分際で、「お母さん酷い!ボク傷ついちゃった!」って言われても、そんな理屈は通りませんよ。
そんな風に極端に反応するから、周りの人に警戒されてしまうのだよ。
というわけで、未来人の敗因は「子供を送り込んだ」ことにあると思われる。
この映画から分かることは、どんなに知能が高く、テレパシーやテレキネシスといった超能力をもっていても、”子供である”というただ一点ですべてを帳消しにするほど、子供であるということは ”無力で愚かで未熟” なことらしい、ということだ。
彼等はこれほど圧倒的な力を持っているのに、哀しいかな、結局は荒れ果てた「廃墟の教会」しか行くところがなく、食料すら自力で調達できないんだから実に憐れなもんだ。そして打つ手打つ手が未熟なので、どんどん目的から遠ざかってしまう。
大人になるまで待てばよかったのに、、、
「大人になるまで能力を隠して目立たないように成長し、大人になってから徐々に能力を発揮して各国の政府の高官に上り詰め、それから一気に世界革命に着手するんだよ」って言い含めてから送り込めばよかったのに、、、
このやり方では50年くらいは余計に時間がかかるけれども、数百万年も時間があるんだから50年くらい大した時間じゃないでしょうに。
実にもったいなかった。
今度はもう少しうまくやって、私たちを救いに来てください。待ってます。
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