ぱっとみ映画感想ブログ

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郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)

 

 

題名 郵便配達は二度ベルを鳴らす(Ossessione)
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
脚本 ルキノ・ヴィスコンティほか
原作 ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』1934年
出演 マッシモ・ジロッティ、クララ・カラマイ、ファン・デ・ランダ
上映時間 135分
制作年 1942年
制作国 イタリア

 

 

イタリアの片田舎で安食堂を経営するブラガーナとその妻ジョヴァンナの元へ、流れ者の男ジーノが現れる。ジーノとジョヴァンナはすぐに惹かれあい肉体関係を持つ。二人はフラガーノを殺害するが、ジーノは罪悪感から酒に溺れていき、ジョヴァンナは店の経営に没頭。二人の気持ちがすれ違い始める。警察に追われる二人は車で逃亡を図り、事故を起こしてジョヴァンナが死んでしまう。ジョヴァンナの遺体にすがるジーノは、追ってきた警察に連行されていく。

 

 

私はこの映画は、ヴィスコンティによる渾身のゲイ映画なのだと思う。

 

まず原作のコーラであるジョヴァンナが、全くつまらない女になっていた。コーラは美人で男好きするエロスを持った女なのに、ジョヴァンナは中年っぽい、学校の先生みたいな、化粧っ気も感じられない地味なつまらない女だった。

原作のコーラは、男ならふるいつきたくなるような、男の人生を狂わすような、不幸になると分かっていても関わらざるを得ないような、男ならつい手を出してしまいたくなるような、一緒にどこまでも落ちて行ってもいいと思えるような、そんな女なのに。

このキャスティングは違う。これはヴィスコンティが、女の魅力が分からないことに由来するのだと思う。

 

一方でマッシモ・ジロッティが演じたジーノはとても良かった。

原作のフランクが持つ労働者階級の雰囲気があった。季節労働者のようにあっちこっちを放浪して、金がなくなれば農場で働いたり、また金がなくなれば自動車修理工として働いたりしながら、根無し草のように点々としている感じがよく出ていた。

男性の魅力の一つに、肉体労働者の持つ魅力、格好よさ、色気みたいなものは確かにあって、それはたぶん見せかけの、飾りの筋肉ではなく、仕事でついた筋肉、生きていたら自然についた筋肉が逞しさを連想させるんだろうと思う。

ジーノにはちゃんと肉体労働者の持つ魅力が感じられた。

 

そしてなにより映画には原作にはいない、登場した瞬間「おや? こいつゲイなのでは」と分かる、スパニョールがとてもよかった。

スパニョールはものすごくいい奴で、ジョヴァンナと別れて一人になり、列車にタダ乗りして車掌にばれ、乗車券を買う金が無くて困っているジーノを見て、スパニョールは「俺が払う」と言って乗車券を買ってあげる。

彼はその後もジーノのお金を全部払ってあげる。まるで、いつかモノにしようと思ってる女に気前よく金を使う男のように。

ジーノに愛する女がいると分かっても「よくあることさ、そのうち気も変わるだろ」って感じであまり気にせずジーノに親切で、ほとんど生活の面倒を見ている感じ。

そして偶然ジョヴァンナと再会したジーノが仕事を抜けようとした時も、愛する女の前で一文無しじゃ格好がつかないだろうと思ったのか、「これを持っていけ」と言って、売り上げからお金を渡す。

 

・・・なんていいヤツなんだろうって思ったね。格好いいよ、スパニョール。最後ふたりは喧嘩してしまうけど、それもジーノのことを思えばこそっていう感じで熱い。

スパニョールの熱さと片思いのせつなさも相まって、「いいヤツだったなあ」という印象を残すヤツなのだった。

 

きっとこの映画は、ゲイ映画なのだと思う。「ゲイによる、ゲイ愛にあふれた、ゲイのための映画」なのだ。

原作にいないだけでなく、映画でもストーリー上は別に必要のないスパニョール。だからこそ私には、

「どうしてもジーノに恋する男を出したい!!バイセクシャルは普通なんだ!!!物語と関係あるとかないとか必然性とかそういうことではなくて、普通なんだから普通に出すんだ!だって普通なんだから!」

そんなヴィスコンティの熱い思いが伝わってくるようだった。デビュー作から気合はいってんな、と。

 

思い起こせば、ジーノを追う刑事もまつ毛の長そうな美男だったし、二人が旦那を殺した直後に食堂に現れる ”名もなき男” も、まあ美男だった。

そう思ってくると、ジーノがダンサーの女の子にアイスをおごってあげる場面で、ジーノが一人になった途端向かいのベンチに座っていた爺さんがジーノの隣に座ってきて、ジーノの煙草に火をつけてあげるという何気ないシーンも、それっぽく見えてくる。

みんなゲイだったんじゃないかしら。

 

そのダンサーの女の子がこれまたジョヴァンナ同様、いまいちパッとしない女の子だったから、やっぱりこれは、男が好きな男による、男が好きな男のための、男バンザイ映画なのだと思う。

 

女なんかどうでもよかった映画なんだ。

 

ヴィスコンティはゲイだから、男女間のことなんか興味ないし馬鹿馬鹿しいとすら思っていて、わざと「パッとしない女」をキャスティングし、「どこがいいんだ、あんな女の」と客に思わせる作戦なのかもしれない。

 

そしてそれはそれでいいし、実際最後はスパニョールのことが一番に思い出されてせつない気持ちになって、時間が経てばたつほど「この映画が好きだなあ」と思えてくるのだった。