
映画『太陽は光り輝く』のデータ
題名 太陽は光り輝く(THE SUN SHINES BRIGHT)
監督 ジョン・フォード
脚本 ローレンス・ストーリングス
出演 チャールズ・ウィニンジャー、ミルバーン・ストーン、ジョン・ラッセル、アーリーン・ウィラン、ステピン・フェチット、フランシス・フォード
音楽 ヴィクター・ヤング
上映時間 100分
制作年 1953年
制作国 アメリカ
映画『太陽は光り輝く』のあらすじ
南北戦争から40年後の20世紀初頭。ケンタッキーのある街では、南軍出身のラッパ手だったプリースト判事と、彼の後釜を狙う北部派のメイデュー弁護士が判事選の真っただ中。選挙を来週に控えたプリースト判事は、歯が浮くようなセリフも言って勝利に余念がない。
そこへ町のいいとこの息子アシュビーが戻ってくる。色男のアシュビーは到着早々、医者のレイク先生の養女であるルーシー・リーを一目で気に入り、ルーシーも精悍なアシュビーに惹かれる。
しかしルーシーは南軍の元将軍の孫娘でありながら、息子が娼婦に産ませた子供だったため孫として認めてもらえず、レイク先生に養女に出されたのだった。
なにも知らないアシュビーは、ゲス男バック・ランジーが彼女の悪い噂を流し、何かにつけて馬鹿にしていると知ってケンカを挑む。プリースト判事はアシュビーを叱りつけ、ランジーの方は町から追い出す。その時アシュビーはプリースト判事から、ランジーが流すルーシーの噂は真実であると聞かされるのだった。
その晩、見慣れない女が町へやってきてマリー・クランプの娼館の前で倒れ込む。偶然居合わせたアシュビーがレイク先生の元へ運ぶが、彼女は娘に会いたい一心で故郷に戻ってきたルーシーの母親だった。ルーシーも自分の素性を初めて知り、長年の疑問が解ける。
とそこへ黒人の青年U.S.が保安官につれられてやってくる。彼は隣町で、女性への暴行の疑惑をかけられ縛り首寸前のところを保安官に助けられたのだった。プリーストは彼に清潔な留置場と食べ物を与えるよう指示し、黒人であろうと公平な裁判が受けられることを約束する。そして保安官に真犯人を見つけ出すよう指示するのだった。
翌日隣町の男たちがU.S.を取り戻しにやってくる。男たちを率いていたのはプリーストに町を追い出されたバック・ランジーだった。U.S.を引き渡せば全員が選挙でプリーストに投票すると持ちかけられるが、プリーストは毅然とした態度でこれを断り、ランジーらを撃退する。
その晩プリースト判事の仲間たちは、プリーストがランジーらの票を失い選挙が一気に不利になったことを嘆いていた。
そこへさらに選挙に不利な出来事が起こる。娼館の女主人マリーがやってきて、自分の家でルーシーの母親が死んだことを告げる。マリーは彼女の希望通りに花と馬車と棺を用意し、きちんと教会で葬儀をあげ、そしてこの故郷で埋葬させたいとプリースト判事に頼む。プリーストは娼婦の葬儀を許可すれば、さらに多くの票を失うのを感じながらもその申し出を快諾する。
同じ晩、町のフェスティバルでは若者たちがダンスする姿が見られ、その中にはアシュビーとルーシーもいた。そしてU.S.にかけられていた暴行の容疑も晴れる。真犯人はU.S.に罪をなすりつようとしたランジーだったのだ。ランジーはルーシーを人質にして逃亡するが射殺される。
そして選挙当日。町は選挙パレードや最後の演説に浮き立つが、そこへ二台の馬車が現れる。一台はルーシーの母親の棺を乗せ、もう一台には黒づくめの喪服を着たマリーら娼館の女たちが乗っていた。
そしてその二台の馬車の間にはたったひとり、葬儀に参列するべく寄り添うプリースト判事の姿があった。眉根をひそめ嘲笑する人々だったが、ひとり、またひとりと、その葬儀の列が徐々に長くなる。その中にはルーシーとアシュビーの姿もあった。
一度はメイデュー弁護士が有利に思われた選挙だったが、自分が最後に投票した一票差でプリーストが選挙に当選する。
映画『太陽は光り輝く』の予告編
映画『太陽は光り輝く』の感想
ジョン・フォードが1934年に監督した作品『プリースト判事』のセルフ・リメイク作品とのことで、DVDを手に入れて見てみた。
オリジナルがお気に入りの私にとっては、監督のジョン・フォードが前作から20年を経て再度映画化したいと思ったのはなぜなんだろう、というのが興味の対象。面白い映画だったのに気に入らなかったのかな。
そしたら、登場人物、舞台、時代、出来事、ストーリーなど、重なる部分が多いのにまったく違うテイストの作品になっていたので驚いた。
どちらも同じ「人情ドラマ」というジャンルでうたわれているが、オリジナルの『プリースト判事』はコメディの要素が強かったのに対し、今回のリメイク作品は社会派ドラマといった趣き。
ものすごく重いドラマというわけではないが、やや重めで、メッセージ性が強めになっていた。
オリジナルもリメイクも、プリースト判事が主人公。どちらのプリーストも、偏見を捨てて出来る限り公平であろうとする人で、娼婦だろうが黒人だろうが関係なく対応し、正義を貫こうとする愛情あふれたお人柄。
ライバルは弁護士と上院議員という職業の違いはあれど、同じくメイデューがプリーストのライバル。
どちらも南北戦争後のケンタッキーが舞台で、南部色の強い土地柄。今作のプリーストは南部寄りだったけど、オリジナルの方のプリーストはどちらかというと北部寄りだった(甥っ子のジェロームを北部の大学に行かせたりしている)。
だからメイデューの方もプリーストとは逆の位置づけで、今作のメイデューは北部寄りだけど、オリジナルのメイデューは南部寄り(保守的)だった。
さらに今作のヒロインであるルーシー・リーは将軍(息子の方)と娼婦の間の子、オリジナル版ヒロインのエリー・メイの方は父親が誰だか分からない、いわゆる「どこの馬の骨とも知れない娘」。
ルーシーは町の人々に蔑まれているし、エリー・メイは好きなジェロームとの交際をジェロームの母親に認めてもらえない。
二人とも「運命」という、自分ではどうしようもない理由でなかなか幸せを得られない女性というところが共通点。
でもここまでは設定の違い、という感じ。これだけなら「あ、リメイク版は設定がすこし違うんだな。オリジナルのジェロームは、今回はアシュビーっていう名前なのか」とか思うくらいだったと思う。
でも実際映画を見るとぜんぜん違う映画のように感じたのは、話の軸が全く違うからなのだった。それが両方の作品の印象を大きく変える原因だろうと思う。
オリジナル版は幼馴染であるジェロームとエリー・メイの恋模様が軸になっていて、プリースト判事はなんとか二人をくっつけようと力になっている中で色々な出来事が起こって、それに対処するうちにプリースト判事のお人柄が知れてくる。
プリーストは甥っ子の恋愛を成就させようとジェロームの母親に苦言を呈したり、頑固な母親に困ったりしながらも皆を愛している、優しい、公平なものの見方が出来る「田舎の素朴ないいおじさんで、いい判事さん」と言う感じで親しみが持てる。
でも今作はプリースト判事とメイデュー弁護士の判事選挙の話が軸になっていて、その選挙の真っ最中に町で起こる様々な出来事と人々を描く中でプリースト判事のお人柄をあぶりそうする。
そして恋愛がどうのこうのというよりも、強い意志と正義の心で町の人々の間にあるいろいろな偏見や人種差別などと日常的に対峙していくという、「自分の信念に頑固で、損得よりも道理を通そうとする意志の人」という感じだった。親しみを持つというよりも、「立派だな」と思うような感じ。
だから映画も、オリジナルよりもリメイクの方が「評価されやすい立派な作品」になっていた。
ヴィクター・ヤングの音楽も素晴らしいし、いい映画だった。
でも結局は前作の方が私は好きだな。こちらを後に見ちゃったせいもあるかもしれないけど、オリジナルのプリーストの、拳を振り上げたりはせず、照れたり飄々としたりなんかして控えめなたたずまいだけど、実は強い意志と正義そして愛がしっかりと貫かれていたさりげないプリーストが、私は好きだったから。
ジョン・フォードも『プリースト判事』をリメイクするのではなく、全く別作品を用意してこのメッセージを大衆に届ければ良かったんじゃないかな、と思った次第。
※ ちなみにオリジナルに出てくるステピン・フェチットと、フォード監督のお兄さんフランシス・フォードも、どちらもオリジナルと似たような役柄で出演している。
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