
映画『来るべき世界(1936)』のデータ
題名 来るべき世界(Things to Come)
監督 ウィリアム・キャメロン・メンジーズ
脚本 H・G・ウェルズ
原作 H・G・ウェルズ 「Shape of Things to Come」1933年
出演 レイモンド・マッセイ、エドワード・チャップマン、ラルフ・リチャードソン、セドリック・ハードウィック
上映時間 92分
制作年 1936年
制作国 イギリス
映画『来るべき世界(1936)』のあらすじ
架空の都市エヴリタウンを舞台に、1936年から2036年までの100年間の未来を描く。
【第一部:1936年 – 戦争の勃発】
1936年のクリスマスの夜。ヨーロッパの緊張が頂点に達し、世界大戦が勃発。科学者で理想主義者のジョン・キャべルは、戦争の愚かさを訴えるが戦争は終わらず、その後も戦争は数十年も続き、都市は荒廃。やがて文明も科学技術も失われ、人類の文明は退化してしまう。
【第二部:1967年頃 – 疫病と独裁】
戦争によって文明が崩壊した世界。世界中で「さまよい病」と呼ばれる感染症が蔓延。社会は分断し、独裁者が支配するようになり、エヴリタウンでは「ザ・ボス」と呼ばれる軍人が人々を支配していた。ザ・ボスは ”丘族” との戦いを有利に進めるため、今では失われた技術である飛行機を手に入れたがっていた。
そこへジョン・キャベルが未来的な飛行機で現れる。彼は知識と科学によって再び秩序を取り戻す「ウィング・オーバー・ザ・ワールド」を代表してやってきたと言う。やがて彼らは巨大な飛行機と強力な催眠ガスで住民を眠らせ、ザ・ボスの独裁政権を打倒し、再び科学文明を築こうとする。
【第三部:2036年 – 月への挑戦と人類の未来】
あれから数十年。科学者たちの手で人類は再び高度な文明を築き、地下都市が建設されるほど発展。ジョン・キャベルの孫オズワルド・キャベルは、新たなフロンティアへと踏み出そうと月への旅を計画。スペース砲と呼ばれる大砲で人類を月面に送ろうと志願者を募っていた。
しかし急激な進歩に対する不安から、一部の人々は「変化を止めよ」と訴えて反発。彫刻家テオトコプロスの演説が大衆の心を動かし、スペース砲を壊そうと暴動にまで発展する。しかしオズワルドの野望は止まらず、自分の娘と親友の息子を月に送り込むのだった。
映画『来るべき世界(1936)』の予告編
映画『来るべき世界(1936)』の感想
一度見たら忘れられない作品。「うわー面白ーい」とかではなく、何かが胸に頭に引っかかる。これも一種の傑作なんだろうと思う。
ストーリーを簡単に言えば、「愚かな人類は戦争に向かっていき、延々と戦争をし続け、せっかく積み上げてきた文明を破壊してしまった。加えて致命的なウイルスも蔓延。しかし一部の人類は賢く立ち回って科学技術を発展させることに成功。月に人類を送り込むまでになる」という話。
映画の主役であるジョン・キャベルとその孫オズワルド・キャベルまでの、1936年から100年間のにわたる作品で、制作当時が1936年だからここで描かれているのは全て ”未来” の話(ちなみに真ん中の二代目は出てこない)。
原作と脚本を担当したのは、いつもお先真っ暗なディストピアな未来を描くH・G・ウェルズ。ウェルズが書いた未来小説『Shape of Things to Come(1933)』を元に、自身で脚本まで手掛けたのがこの映画。はたして今回もやっぱり悲観的なのか、それとも打って変わって明るい未来なのか。
すると映画の終わり方は極めて前向きで、人類の未来を力強く語って終わっていた。
けれども私は、この未来はディストピアだと思う。
映画の主役はジョン・キャベルとその孫オズワルド・キャベルの二人(レイモンド・マッセイの二役)。
二人とも「善良で賢い正義の人」。
この二人はほとんど同一人物と言っていい描かれ方をしているのだけれど、この善良で賢い正義の二人がものすごく胡散臭く描かれている(演技もクサい)。
例えば、ジョン・キャベルとザ・ボスとの会話では思い上がりが炸裂。
引用:
キャベル「戦争だと?まだそんなことをやっているのか。いい加減にしないか」
ザ・ボス「どういう意味だ。戦争が何が悪い。お前は誰だと聞いているんだ!」
キャベル「私は正義だ」
ザ・ボス「わたしが正義だ!」
キャベル「私はまともな正義だ」
何様!
一見するとザ・ボスが「戦争大好き」みたいな悪者に見えるけど、いーや、私からすれば自分で自分を「まともな正義」と言っちゃうキャベルの方がずっとヤバいと思う。
そしてザ・ボスをなんだかよく分からないガスで亡き者にしたあと、
キャベル「悪しきものは去り平和な新世紀が始まるのだ。まったく哀れな男だった。馬鹿げた世の中は終わりだ。新しい時代の幕開けだ」
と、ザ・ボスの遺体を階段の上から見下ろしつつ言い放つ。
演劇か!! まったくもって自己陶酔もはなはだしい。
ポーズがクサい、シチュエーションがクサい、カメラワークやカット割りもクサい、アングルがクサい、演技もクサい。
もう何もかもがクサくて、ここまでクサいが重なると、たぶんわざとなんだと思う。
そしてヤツ(もう”ヤツ”と言ってしまうけども)はエブリタウンの”悪”を倒して、気持ちよく自分の国へ帰っていくのだった。はいはいよかったね。
ザ・ボスは人間味のある男だった。俺の欲望!っていう感じで、シンプルで良かった。
ザ・ボスは自分が悪だって自分で分かっていると思う。自分は必要悪だって認識していたと思う。分かってるから苛立っていたし、粗野にもなる。
感染を食い止めるために市民を皆殺しにしていたから一見非情に見えるけど、エブリタウンで流行しているのは「かかったものは必ず死ぬ」ような感染症だから、非情にならざるを得ない。
誰一人、感染を防止できずにいた中、ザ・ボスだけが決断した。決断して、徹底して、皆を守った。だからボスになれた。当然だと思う。
これはもう手段の善悪は関係ない。誰にもできなかった決断をした男なんだから、ぐずぐずと決断できなかった奴が文句を言う筋合いはない。
でもジョン・キャベルはザ・ボスのことを、アリを観察するような、神のような視線と表情で見つめてる。「愚かな者よ。私はすべてを理解している」っていう顔で。
自分を正義で潔白だと思い込んでいるジョンやオズワルドより、自分の限界を感じてジタバタしているザ・ボスの方が、私はずっと好きだったね(ファッションも良かったし)。
このジョン・キャベルの独善的な性格は孫の代まで引き継がれたらしく、孫のオズワルド・キャベルがこの映画にとどめを刺す。
時代は下がって2036年。ジョンのクローンのようなオズワルドは人類のさらなる発展を目指し、自分の娘と親友レイモンドの息子のふたりを月に送り込もうとしている。
だけど親友レイモンドの方は不安で一杯。
その心配は、月面に行くその行き方が「巨大な鉄の弾丸に乗った二人を巨大な大砲で月に向かってぶっ放す」という、いわゆるジョルジュ・メリエス監督の映画『月世界旅行(1902)』方式だからではなく、親として、一人息子が危険な目に遭うのが心配だからに他ならない。
ところがオズワルドは「いいんだよ」と言い放ち、「人類の未来に貢献できれば娘の命が犠牲になっても構わない、もし娘が死んだら次の人間を送り込むのさ」と言い切っていた。
さらには「人生には危険や事件がないと面白味がない」と言ってのけ、
引用:
「征服に次ぐ征服あるのみ。困難な時代を乗り越え、そして遂には・・・広大な宇宙へと旅立つ。そしてこの地球が深遠な宇宙や時空世界をも征服しても、それでもまだ始まりでしかないんだ。全宇宙か、はたまたゼロか。どうなるであろう、パスワーシー。我々の未来は」
と言っていた。飽くなき支配欲。
そしてやはりここでも、そう喋ってる時のオズワルドの自己陶酔感いっぱいのカメラアングル。恐ろしく自己陶酔に浸ったオズワルドの横顔が気持ち悪い。
ぺ! 自分を神かなんかだと思ってんだろうね。
私のようにキャベルが嫌いだったのか、映画内でもこの独善的なキャベルを打倒しようという人物が出てくる。それが不発のヒーロー、彫刻家のテオトコプロス。
どっかで見た俳優だな、どこだっけ、ああそうだ『ノートルダムのせむし男(1939)』のフロロ伯爵だ。あれは難しい役どころだったね、、、というのはさておき、個人的にはぜひとも頑張って革命してもらいたい人物。
しかし彼の論理は
「科学も進歩もあまりにも行き過ぎている! 俺たちはそこまで望んでいない! 宇宙になんか行かなくていい!! 進歩しないで少し休んだっていいじゃないか!」
というもので、某蓮舫議員の「二番じゃダメなんですか」とほとんど変わりがない。これだと革命は無理そう。
でも映画では大衆の心に響いたようで、暴動に漕ぎつけることに成功する。そしてテオトコプロスとその一行は、スペース砲と呼ばれる宇宙船(?)の発射台に向かって大挙して押し寄せ、発射を阻止しようとするが、タッチの差で失敗してしまう。
この後すぐに、うっとりと自己満足に浸るオズワルドの自己陶酔イベントに突入してしまうので、この後のテオトコプロスや同調者たちがどうなったのかは分からず、人類の未来の結末も分からず、映画は終わる。
私の感覚では、この未来はディストピアだった。私は二人のキャベルがつくったこの未来は好きじゃない。
