題名 自転車泥棒(原題:Ladri di Biciclette )
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
制作 ヴィットリオ・デ・シーカ
出演 ランベルト・マジョラーニ
音楽 アレッサンドロ・チコニーニ
上映時間 93分
制作年 1948年
制作国 イタリア
第二次世界大戦後のイタリア。
話はいたって簡単で、戦争に負けて仕事が無く、とても貧しい男アントニオが、ようやく見つけた仕事をこなすのに必要な自転車を盗まれてしまい、必死で探すが見つけられず、なんとか犯人を見つけるが証拠が無くて相手にされず、途方に暮れて自分も自転車を盗んでしまう、という話。
海外でも日本でも極めて評価の高い、数々の映画ランキングで上位に入ってくる名作中の名作。ネオリアリズムの先駆け的な作品にして代表作。昭和時代、これを褒め称える映画評論家は多かった。もしかすると、けなす人はいなかったかもしれない。
だからこの映画を見る私は「家族の期待を背負って追い詰められたアントニオが、自転車を盗む行為に至るまでの事情と心情を、敗戦後という時代性を鑑みたうえで理解し、その悲哀に感じ入る」という感想を持たなくてはいけない。
ところが私はそんなアントニオの姿を1時間半見ていて、「いるんだよなあ、こういう人って。いい人なんだけどなあ。なんか裏目裏目に出るというか、何をやっても上手くいかないっていうか、どん臭いというか、要領が悪いというか、運の悪さが集まってくるというか・・・仕事だってあるやつはあるし、自転車だって盗まれない人は一生盗まれないのに・・・なにがいけないんだろうなあ」と思ってしまったのだった。
現代にあっては、戦後の不幸は遥か彼方。昔の観客は我がことのように映画を見たかもしれないけれど、時代の流れと共に映画の印象が変わってしまう。アントニオにとってはそれも気の毒なことなのだった。
私たちの社会はアントニオの社会と比べれば十分豊かで、個々の無能が問われる時代。アントニオみたいな人間は、「思慮深さが足りないんじゃないの」なんて言われてしまって、実際私もそう思ってしまったのだった。
私たちの社会はもう、社会や時代のせいだけにはできない社会。私たちだって別種の不幸を抱えているのだ。
ところで撮影は素人役者ばかりを使ったらしいが、子役を含めてみな素人とは思えない演技で秀逸。ちなみに主人公はちゃんと正しい犯人を見つけている。