
- 映画『フリークス(1932)』のデータ
- 映画『フリークス(1932)』のあらすじ
- 映画『フリークス(1932)』の予告編
- 映画『フリークス(1932)』の感想
- 映画『フリークス(1932)』の主な登場人物たち
映画『フリークス(1932)』のデータ
題名 フリークス(Freaks)
監督 トッド・ブラウニング
出演 ハリー・アールス、デイジー・アールス、ウォーレス・フォード、オルガ・バクラノヴァ、ヘンリー・ヴィクター、リーラ・ハイアムス
上映時間 64分
制作年 1932年
制作会社 MGM
制作国 アメリカ
映画『フリークス(1932)』のあらすじ
あるサーカスの一団に所属する男ハンスは、フリーダという婚約者がいるにも関わらず、サーカスの花形であるクレオパトラにすっかり熱を上げていた。もてあそばれているとも知らずに彼女に夢中なハンスのことを、フリーダは悲しいまなざしで見つめていた。
そんなハンスに莫大な遺産が転がり込んでくる。クレオパトラは今まで間抜けだと馬鹿にしていたハンスが金持ちになると知ると、愛人のヘラクレスと結託。ハンスを騙して結婚し、毒殺しようと計画を練る。
そうとは知らず、クレオパトラからの求婚に舞い上がったハンスは、フリーダを顧みることなくクレオパトラと結婚式をあげてしまう。その結婚式の最中クレオパトラはハンスの酒に微量の毒を盛る。そして計画の成功を確信したクレオパトラは調子に乗り、ハンスやハンスの仲間たちをあざけりののしってしまう。その姿を見たハンスは、クレオパトラの本性と自らの愚かさに気が付く。
しかし毒がまわったハンスは寝込んでしまう。クレオパトラは医者からもらった薬にも毒をまぜてハンスに与え続けるが、ハンスは騙されたふりをして口に含み、見えないように吐き出していた。その頃、日頃からクレオパトラに侮辱されていた仲間たちは、クレオパトラによるハンス殺害計画を知り、彼女への復讐を計画。ある晩それを実行する。
時が経ち、クレオパトラには恐ろしい罰がくだされていた。一方、遺産を相続して資産家となったハンスはひとり孤独に生活している。そこへかつての仲間フロゾとヴィーナスがフリーダを連れて訪ねてくる。今でもハンスを愛するフリーダは、ハンスを許し、二人は結ばれる。
映画『フリークス(1932)』の予告編
映画『フリークス(1932)』の感想
※思い入れが強すぎて、あまりに長い感想文になっています。注意。
映画冒頭の説明に「このような物語が2度と映画化されることはないだろう」とある通り、二度と映画化されることはないと思う。
実際に映画が公開された時はショックで流産した人がいたと言われるほどの騒ぎになり、監督は干され、イギリスでは30年間も上映禁止作品となった。
でも、あらすじを読んでもらえたら分かると思うけれど、これは男女間の駆け引きやトラブルを描いた、良くあるストーリーにすぎない。
身分違いの恋、あるいは釣り合いの取れない相手に恋をして笑われる男と性悪な女の愛憎劇と、虐げられた者たちの復讐劇、そんなありふれた映画が、なぜそれほどまでの大問題になったのか。
それはクレオパトラとヘラクレス以外の登場人物が全員、奇形者や身体障害者ばかりだから。
主役のハンスとフリーダは小人症、シャム双生児の姉妹(双子の腰の部分が繋がっている)、多毛症の女性(立派な髭がある)、アンドロギュヌス(両性具有者)、ゼッケル症候群の女性(鳥女)、小頭症の姉妹、両腕のない女性、下半身欠損症の男性、下半身だけでなく両腕もない手足欠損の黒人男性。
わずか数人の健常者を除いてほぼ全員がなんらかの障害を、それもかなり重度の障害を抱えた奇形者たちなのだ。
このような奇形者たちは、20世紀前半くらいまでは見世物小屋やサーカスなどで自分の姿を見世物にして生計を立てている人も多かった。
でも20世紀も半ばになると人権意識が高まり、見世物小屋やサーカスで奇形者や障害者が見世物にされることへの是非が問われ、見世物小屋自体が「いかがわしいもの」「悪場所」として衰退していく。
奇形者や障害者はどこへいったんだろう。
80年代のことだと思うけれど、私はアメリカの小人症の女性がインタビューを受けているTV番組を見たことがある。彼女はすでに老婆で、若い頃はサーカスに出演して生計をたてていたけれど、世の中の人権意識の高まりで職を追われて活躍の場がなくなったことを訴えていた。障害年金や生活保護のような公的援助を受けて生活するよりも、昔のようにサーカスで自活していた方が良かった、と言うのだ。
それを見た10代の私は思ったのだけれど、嫌がる障害者を(鞭で叩いたりして)無理やりさらって見世物にするのは論外だが、自分の意志でサーカスに職を求めるのはなんの問題もないではないか、と思った。
ショービジネスに向く人と向かない人がいるのは、障害者だろうと健常者だろうとおんなじで、華やかな世界が好きで、注目されるのが好きな奇形者だっているだろう。
実際インタビューを受けていた小人症の彼女は、確か「子供が好きで、サーカスで子供たちを喜ばせるのが好きだった」と話していたように記憶している。
それなのに、親切な健常者の「見世物にするなんてひどい!」という ”善意” のせいで、彼女は生きがいを奪われてしまったのだ。
差別問題と言えば他にもたくさんあって、80年代は「女性差別の撤回」に世の中が夢中な時代で、田嶋陽子あたりが頻繁にTVに出て「男女差別だ!」といったことを訴えていた。
そして90年代に入る頃には女性は十分強くなっていたと思う。まだまだ問題は多々あれど、女性がやたらと元気だったことは確かだ。
私は「完全な平等」などないと思っているので、世の中の女性解放運動系のヒステリックな女性たちを見ると、「もう十分じゃない?」と思っていた。そして「奴隷を解放し、黒人を解放し、女性を解放し、次のターゲットはなんだろう」と思っていた。
そしてそれはどうやら障害者差別らしかったのだった。
80年代後半から90年代にかけてはディベートの時代でもあって、「朝まで生テレビ」などのディベート番組が盛んに放送されていた。その中でいつだったか忘れたが90年代の最初の頃だと思うのだけれど、小人レスラーが「自分はプロレスが大好きで、だから小人レスラーになった。それを奪わないでくれ」と訴えていた。
彼らはメインのプロレスの前座として小人同士のプロレス・ショーを行っているのだが、やはり親切な健常者が、「見世物にするなんてひどい!」と言ってきて、職を、夢を奪われそうだと、あのサーカスの老婆と同じことを言っていた。
また同じ頃、「CANDOCO」という海外のパフォーマンス集団が日本でワーク・ショップを開き、パフォーマーを募っているという内容のドキュメンタリー番組を見た.。
CANDOCOのパフォーマンスの特徴は障害者たちを起用していることで、この頃のスターは下半身欠損の男性パフォーマーだった。
他にも、片脚がないとか、腕がないとか、車いすだったり松葉杖だったり、見た目は五体満足な健常者に見えても知的障害者だったりする。
そして彼らはCANDOCOの理念として「障害者が福祉に頼って生計を立てるのではなく、完全な経済的自立を目指す」という高い志を語っていた。
そして、そんな彼らのパフォーマンスは同情を誘うようなウェットなものではなく、かなり突き放した感じの、知的でクールでスタイリッシュなのものになっていて、とても格好いいのだった。
※CANDOCOはその後も活躍中。
他にも90年代には、障害者スポーツにおける競技用義足や競技用車いすの進化なども目覚ましいものがあって、彼らが走る姿がどんどん美しくなっていくのをTVで眺めていたりもした20代の私は、
「五体満足に生まれた方がいいいのは十分承知だが、たとえ足がなくても知能が普通であれば、障害者カテゴリに入らないくらいの世の中になるといいな。
だって足が無ければサッカー選手にはなれないかもしれないが、両足があったって私はサッカー選手にはなれない。両手がなければピアニストにはなれないが、両手があったって私はピアニストにはなれない。するとサッカー選手やピアニスト側から見れば、両手両足があってもなくても ”なれない” 点では大した変わりはない。
五体満足の私達は一般になんにでもなれる可能性があることになってはいるが、現実は大して可能性はない。
誰だってなりたいものになれる訳じゃないし、やりたいことが出来る訳じゃない。自分に出来る限られたものの中から選んで生きていくだけのことだ。
それは健常者だって障害者だって同じことなのだから、そんなに障害者扱いする必要はないのではないか。」
そんなことをごにょごにょ考えていた90年代の半ばくらいに、この映画をリバイバル上映で観た私は、「なんだ普通の映画じゃないか」と思って、別段ショックを受けたりはしなかったし、むしろ美しいとさえ思った。
特に前半の森の中のシーンの美しさは感嘆する。
サーカスの女性(健常者)は、何人もいる奇形者や知的障害者を「子供たち」と呼んで愛しており、森で太陽を浴びて遊ばせているのだが、森の木漏れ日の中で遊ぶ彼らは、まるで妖精のようだと思った。
中世など、昔の人たちの中にはこんな風に人里離れて森に隠れ住む奇形者たちの姿を見て「妖精を見た」と思う人もいたのではないか。まあ、、、妖怪とか怪物伝説にもなってしまったかもしれないが。
というわけで、今作はとても良い映画だと思うのだが、冒頭にもあげたように上映禁止になるほどの衝撃を観客に与えてしまった。実際いま見ても衝撃的であることは間違いない。
この映画の主題のひとつに「怪物なのは誰か」があると思う。そして映画の中で怪物扱いされている奇形者たちが怪物なのではなく、彼らを怪物扱いして人として見ない健常者こそが怪物なのだ、という描かれ方をしていると思う。
実際クレオパトラとヘラクレスの横暴さ、粗雑さ、鈍感さは目に余るほどで、奇形者たちを人間として見ていない。
相手を人間だと心底思っていないと、人はここまで残酷になれるのかと目を覆いたくなる。
奇形者たちにだけでなく人種差別も同じ心理だろうと思われる。
オーストラリアのアボリジニ大虐殺など、過去にこんなことは数えきれないほど繰り返されてきたわけだから、「人間なんてほんとロクなもんじゃないな」と絶望したくなった。
さらに言えば、この映画を観て衝撃を受けた人々や、上映禁止を叫んだ人、上映禁止にした人達は、おそらく「怪物は私たちだったのか!」と気付いて衝撃を受けたわけではなく、
ただただ奇形者たちが映画に出ているというヴィジュアル面に反応しただけの、感情的なヒステリック反応だったのだろうと想像すると、ますます絶望気分になるのだった。
現在はどうか。もちろんこうまであからさまに暴力的なことはないが、静かに、消極的に、穏便な形で似たようなことが行われていないだろうか。
私の職場では、車椅子だったり、杖をつく程度ではあるが下肢が不自由な人が「障害者雇用枠」でわずかながら就職してくるのだが、私は彼らの運用方法に大変不満がある。
彼らはただ車椅子なだけで他はなんら健常者に劣るものではない。にも拘わらず、うちの職場は、彼らに「朝から晩までスキャン」「朝から晩までデータ入力のみ」といった単純作業しか用意せず、キャリアプランなど立てようもない扱いである。そして彼らはしばらくすると辞めていく。
そりゃ辞めるわ。一人前の人として扱っていないんだもの。
これは誰にでも起こることなんだがなあ。いつ事故に合うか分からないんだし、老いで能力が低下したりもする。
そうしたら無下に扱われて、それで納得できるのだろうか。誰だって他人ごとではないのだ。
・・・と色々長々と書いてきたが、実はこの映画、今私たちが見ることができるバージョンはこれでかなり穏当な結末に替えた物らしい。
映画のラスト、ハンスの仲間たちがクレオパトラやヘラクレスを襲うのだが、実はこのあとまだまだ続き、しかも相当残酷な描写で、その結果がラストのあの見世物小屋の、クレオパトラのあの姿になるらしい。
それがあまりにもおぞましかったため上映禁止になり、別バージョンの制作へとなったんだとか・・・
残念ながらそのオリジナル・バージョンは失われていて現在は見ることができない。
映画『フリークス(1932)』の主な登場人物たち
ハンス(小人症):ハリー・アールス
フリーダ(小人症):デイジー・アールス
クレオパトラ:オルガ・バクラノヴァ
ヘラクレス:ヘンリー・ヴィクター
フロゾ:ウォーレス・フォード
ヴィーナス:リーラ・ハイアムス
ロスコー(吃音症):ロスコー・エイツ
マダム・テトラリニ(団長):ローズ・ディオン
シャム双生児:デイジー & ヴァイオレット・ヒルトン
ロロ兄弟:エドワード・ブロフィー
ロロ兄弟:マット・マクヒュー
骨人間(るいそう):ピーター・ロビンソン
多毛症の女性:オルガ・ロデリック
半陰陽者:ジョセフィーヌ・ジョセフ
クー・クー(ゼッケル症候群):クー・クー
ジップ(小頭症):エルヴァイラ・スノー
ピップ(小頭症):ジェニー・リー・スノー
シュリッツ(小頭症):シュリッツ
ハーフボーイ(下半身欠損):ジョニー・エック
腕の無い女性:フランシス・オコナー
生けるトルソー(手足欠損):プリンス・ランディアン
アンジェロ(小人症):アンジェロ・ロシェット
鳥女:エリザベス・グリーン

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