題名 第三の男(The Third Man)
監督・制作 キャロル・リード
脚本 グレアム・グリーン
出演 ジョゼフ・コットン、オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ
音楽 アントン・カラス
上映時間 105分
制作年 1949年
制作国 イギリス
アカデミー撮影賞(白黒部門)
アントン・カラスのツィターがうるさい。
でも光と影の映像美、抑制の取れた演出、人生や運命の苦さが光るストーリーで、評判にたがわぬ渋い映画だなあと感心する。完全大人向け。
昭和時代、名作映画ランキングのような企画では必ずと言っていいほど上位にランキングされ続けた名高い映画で、最近の映画ランキングでもかなり上位に食い込んでくるあたりはさすがとしか言いようがない。
舞台は、米英仏ソが分割統治する第二次世界大戦後のウィーン。瓦礫と闇市の時代。
主人公のホリー・マーチンスは、しがない文無しの三流小説家。親友のハリー・ライムに「一緒に仕事をしよう」と誘われウィーンに到着。ハリーのアパートを訪ねると、ハリーはすでに死んでいた。ハリーは自宅の前で車に轢かれ、ホリーが到着するほんの10分前に棺が出て行ったばかりだという。
埋葬に立ち会ったホリーは、同じく参列していた男に誘われ飲みに行く。すると男の職業はホリーが嫌いな警官だった。売り言葉に買い言葉で口論となり、自分で犯人を捜すと口走る。早速、聞き込みを開始したホリーは、事件を目撃したアパートの管理人の証言から、ハリーの事故現場にもう一人、「第三の男」がいたことを知る。
しかし目撃者たちの証言の食い違いや、関係者がハリーの知り合いばかりであることから、ホリーは事件に強い疑問を持つようになる。ハリーの死は本当に事故なのか。真相は別にあるのではないか。「第三の男」は誰なのか。
ホリーは事故の真相に迫るうち、苦い深みにはまっていく。
モノクロ映像でとらえる戦後ウィーンの、夜の瓦礫の街並みが凄みを感じるほど美しい。
日本の焼け野原を見ても “美しい” とは思わないのに、ウィーンの瓦礫に美を感じるのはなぜだろう。石の文化だからだろうか。石の冷たさ、空気の冷たさが、モノクロ映像を通して伝わってきて清潔に感じる。
主演は二人。ジョゼフ・コットンとオーソン・ウェルズ。
まずはジョゼフ・コットンだけど、彼のフィルモグラフィを見ると、私はどうやら10作品くらいは観ているらしい。世代でも何でもないにしては、まあまあ観ているんじゃないかしら。
でも彼はそんなには印象に残らない。顔とか好きだし、格好いいと思うし、とても魅力的なのに、なにかこうインパクトや強烈さに欠けるというか、サラッとしていて執着に欠けるというか、ギラギラしたところや重さがない。そのせいか見終わった直後で、もう印象がぼやけてしまう。私はそういうところが好きなんだけど、俳優としてはやや物足りない。好きだけど。
今回もやっぱりジョゼフ・コットンは、少し軽めに出てきて、作中かなり苦い経験をしているのにやっぱり最後までちょっと軽めで、そこがジョゼフ・コットンらしくて良かった。それが彼の持ち味。私は好きよ。
もうひとりの主役はオーソン・ウェルズ。
私にとっては「赤ちゃんおじさん」っていうイメージ。童顔で、すごく背が大きいオジサンなのに、体の一番上に赤ちゃんが乗ってるの。へんなの。
ウェルズは “怪物”“天才” と名高いけれど、ちゃんとした作品は少ない上に、評価もマチマチ。監督・主演の『市民ケーン(1941)』がやっぱり別格に傑作で、出演しただけの『第三の男』は次点というところ。
そしてジョゼフ・コットンとは全く違う個性。強烈な存在感。もし身近にいたら、やっかいそうだけど、さぞかし頼りになることだろう。敵ではなく、味方にしたい。
ところで映画に戻るけど、最後、ホリー撃ったかな。たぶん撃ったよね。でも撃てるかな、あそこで。ハリーが「撃てよ」みたいな顔してたけど、撃てるもんかな。
うーん。自分で撃ったかなあ。でもそうじゃないような気が私にはするなあ。撃ったんだろうなあ、あそこで。
でもそうすると映画のラストで、一文無しのホリーがアンナの前で、まるで捨てられた子犬のように「拾ってくんないかなあ、声かけてくんないかなあ、もじもじ」みたいに立っているわけだけど、ハリーを撃ってたらあんなことできるかな。彼女はハリーの女なのに。
わからないなあ。
しかしそれにしてもアンナの、「一瞥もしない」「一顧だしない」という素通り感がすごい。ガン無視。まるでそこになにもないかのよう。氷のように冷たくって、そして笑える、私の好きなシーン。
しかしアントンがなー。気が散るからオープニングとエンディングだけにすればもっと良かったのに。