ぱっとみ映画感想ブログ

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赤い靴(1948)

 

 

 

 

 

映画『赤い靴』のデータ

題名 赤い靴 (The Red Shoes)
監督 マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー
原作 アンデルセン 「赤い靴」(1845)
出演 モイラ・シアラー、アントン・ウィルブルック、マリウス・ゴーリング
上映時間 133分
制作年 1948年
制作国 イギリス

 

 

映画『赤い靴』の詳しいあらすじ

権威あるバレエ団を率いるカリスマ・ブロデューサーのレルモントフは、バレエへの情熱と才能と美貌をそなえたダンサーのヴィッキーを見出し、彼女をスターに育てようとする。

ある日、バレエ団のブリマドンナであるボロンスカヤの結婚が決まる。祝福する団員たち。しかしレルモントフは冷ややかに受け止め、彼女を解雇してしまう。そしてレルモントフは、楽曲が気に入らずボツにしていたバレエ『赤い靴』を、才能ある若手作曲家ジュリアンに書き直させ、ヴィッキーに主役を張らせることを決める。

舞台は大成功をおさめ、若いヴィッキーとジュリアンは稽古を通じてお互い愛し合うようになっていく。

「芸術とは人生のすべてをささげること」という信念を持ち、ヴィッキーをそのミューズに育てようとしていたレルモントフは、二人の関係を引き裂こうとジュリアンを解雇し、ヴィッキーにダンスのみに生きるよう要求する。しかしヴィッキーは愛を選び、ジュリアンを追ってロンドンへ行き彼と結婚する。

 

しばらくのち、ジュリアンと一緒になって以来、踊る機会を失っていたヴィッキーは、レルモントフの「『赤い靴』は君にしか踊れない。君がいない間ずっと封印していた」との言葉を聞き、楽団に戻る。

そして迎えた『赤い靴』再演初日。楽屋で開演の準備をしているヴィッキー。ラジオからはロンドンにいるジュリアンの、作曲家としての再出発がかかる舞台の中継が流れている。すると突如、ラジオからは「ジュリアンが病気で指揮者交代」の報が流れる。

そこへジュリアンが楽屋に現れる。初日を捨てたジュリアンに驚くヴィッキー。「君も舞台を捨てろ」と迫るジュリアン。しかしレルモントフはヴィッキーに舞台に上がるよう指示する。

「愛か、芸術か」の二択を迫られ苦悩するヴィッキー。結局ヴィッキーはバレエを選び、捨てられたジュリアンはロンドンへ戻っていく。

 

いよいよ『赤い靴』の開演がせまる。舞台へ向かうヴィッキーだったが、突然きびすをかえし、ジュリアンを追って劇場を飛び出す。走るヴィッキーは汽車に向かって身を投げる。息絶えるヴィッキーの傍らにはジュリアンがいる。

『赤い靴』の幕が上がる。そこに立っていたのはヴィッキーではなくレルモントフであった。プリマのヴィッキーはもう永遠に舞台に立つことはないことを観客に告げ、プリマ不在のまま舞台は上演される。

 

 

映画『赤い靴』の感想

世俗の愛ではなく、崇高な芸術の神に人生をささげるレルモントフと、

芸術と女の幸せのはざまで苦悩する「赤い靴の少女」ヴィッキー、

そして愛の名のもとに女の才能を閉じ込めようとする男ジュリアンの物語。

 

率直に言って名作だと思う。アンデルセンの『赤い靴』の、とてもよくできた翻案だと思った。

映画のなかば過ぎから15分にわたって演ぜられる劇中劇『赤い靴』のバレエ・シーンとその後に続くバレエ・シーンは圧巻。

赤い靴を履いてパーティに行きたいと願う少女が、願いが叶って赤い靴を履いて踊りに行くが、日が暮れて少女が家に帰ろうとしても靴はそれを許さず、少女は昼夜を問わず踊り続けることになる。恋する暇もなく、ただ延々と踊り続け、少女が死んでようやく靴は踊るのをやめる、という物語。

バレエということで歌やセリフは一切ないため、やや抽象的になってしまうのだが、レルモントフのセリフで言っていた『赤い靴』のストーリーや、主人公の少女の苦悩がよく伝わってくる、すばらしいバレエ・シーンだった。

この主人公のバレエ・ダンサー、ヴィッキーを演じたモイラ・シアラーはサドラーズ・ウェルズ・バレエ団(現ロイヤル・バレエ団)に所属していた実際のバレリーナなので、説得力も抜群。

この劇中劇『赤い靴』は舞台形式にも関わらず、映画である利点を生かして合成映像を使用するなど、本当の舞台では不可能と思われる演出をしているところは賛否あるのかもしれないが、私はよかった。映画だからヴィッキーの表情がアップになったりするのも映画ならでは。彼女の苦悶が伝わってくる。

 

ところで原作のアンデルセン『赤い靴』は、靴も持てない貧しい少女が、幸運と善意に恵まれて貧しい境遇から救い出されるが、彼女は「赤い靴」が象徴する誘惑と虚栄心にとらわれてしまい、謙虚さや感謝の心を持つことがない。

自分を救ってくれた金持ちの老婆の病気も顧みず、赤い靴を履いて人々に注目されることばかりを考えているうちに、老婆は亡くなってしまう。

すでに赤い靴の魔力につかまり、永遠に踊り続ける運命にあった少女は、老婆の葬式を横目に踊りながら通り過ぎるしかない。踊って踊って踊りつづけ、最後にとうとう少女は自らの足を切断し、ようやく永遠の踊りから解放される。

そして修道院へ入り、人々のために祈り、生活するようになり、最後は神の許しを得ることができた、という話。

 

怖い。

 

なんて恐ろしいんだろう。日本人とは怖さの感覚が違う。愛や人間関係をおろそかにしたことで罰を与えられるのだが、その罰のしつこさがハンパない。なぜ向こうの人はこういうタイプの怖い話が好きなのか。

 

でも映画は原作のような、キリスト教的道徳めいた作品にはなっていない。レルモントフが上演する劇中劇『赤い靴』はアンデルセンの原作と主題はほぼ同じだと思うのだが、ヴィッキー自身は赤い靴の少女とは全然違う。彼女はべつに虚栄心や誘惑に惑わされている訳ではない。芸術に身をささげる ”潔癖の人” レルモントフのように、自分も芸術に身をささげるべきか、それとも愛に身をささげるべきかで迷う、現実的な悩みだ。

ヴィッキーは、レルモントフとジュリアンという二人の男に姿を借りた、ふたつの生き方の間で苦悶する。ヴィッキーは舞台で『赤い靴』を演じながら、レルモントフの期待に応えミューズとして踊り続けることと、生身の人間として現実の生活を送ることのはざまで苦しんでしまう。劇中劇であるバレエ『赤い靴』のなかで、ヴィッキーを苦しめる「赤い靴の精」といった様相の靴屋の姿がレルモントフに変わり、それからジュリアンに変わる場面は象徴的だった。

確かにレルモントフの圧はなかなか。人生を舞台芸術に捧げているとはいえ、結婚して世俗の幸福に ”堕ちた” プリマのボロンスカヤを即刻解雇し、ヴィッキーに無言の圧力を与え続け、それでも同じ轍を踏もうとするヴィッキーの愛を、手段を選ばず引き裂く徹底ぶり。

「個人の幸せなんて価値がない」と言わんばかり。芸術家の鏡。実際、芸術に殉ずるということはこういうことだろうと思う。だからこそ凡人の魂を揺さぶるのだ。そういう芸術家は過去に大勢いる。

 

でも私は、本当にヴィッキーを不幸にしたのはレルモントフではなく、ジュリアンだと思う。

ジュリアンは、結婚したあとヴィッキーから踊る機会を奪っていた(トゥシューズをしまい込んでいるシーンがあった)。才能のある女を愛する資格のない男だ。

その上、彼はヴィッキーの舞台復帰を阻止する為に「自分の大事な初日を棒に振る」ような男でもあって、そこまでして女の才能と未来を阻もうとしていた。

これではどんなに才能があっても芸術家として落第。

「え? 舞台に穴をあけたの? 」と、見ていてびっくりした(ヴィッキーもびっくりしていた)。

本当にヴィッキーと芸術を愛しているのなら、自分の芸術に殉じて、ヴィッキーの芸術にも殉じて、一緒にがんばらなければいけないと思う。

結局ジュリアンは自分の芸術も軽んじている。初日を棒に振ることができる程度の才能は、おそらく大した才能ではないだろう。ヴィッキーが「初日を捨てたの!?」って驚いていたけど、正しい反応だった。きっとジュリアンの才能を見限ったことだろう(見限るべきだ)。

ジュリアンは恋に溺れ、身勝手な愛に堕ち、自分を見失った愚かな男だ。

 

ヴィッキーは断然レルモントフを信じてついていくべきだった。レルモントフはヴィッキーを高みに連れて行ける男だ。しかも自分が一度解雇したボロンスカヤを、自分の都合で呼び戻したりもできる実際家でもある。芸術の為に必要なら、過去の自分の過ちなどに拘泥しないわけだ。ヴィッキーはレルモントフについて行けば、芸術と、そしていつかは本物の愛も、両方を手に入れられたかもしれないのに。

この素晴らしい傑作を私はDVDで見たのだけれど、個人的に残念だったのは、マーティン・スコセッシによるデジタル・リマスター版があることを知らなかったこと。私が購入したDVDは、古い映画だからかなり画像が荒くて、せっかくの美しい映像や色彩がきちんと伝わってこないのだった・・・。ほんと残念。