ぱっとみ映画感想ブログ

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M(1951)

 

 

 

 

 

映画『M(1951)』のデータ

題名 M (M)
監督 ジョセフ・ロージー
制作 シーモア・ネザンベル
出演 デヴィッド・ウェイン、ハワード・ダ・シルヴァ、マーティン・ガベル
上映時間 88分
制作年 1951年
制作国 アメリカ

 

 

映画『M(1951)』のあらすじ

幼女連続殺人事件がL.A.の人々を脅かす中、一人の男がある少女に忍び寄る。女の子の名はエルシー。男は学校からひとりで帰宅するエルシーに忍び寄り、一緒に町をぶらつく。そして目の見えない風船売りからピエロの風船を買ってやり、口笛を吹きながら去っていく。母親は家で昼ごはんの準備をしているが、昼が過ぎてもエルシーは学校から戻らない。

エルシーはいなくなり、警察が懸命に捜査をするが手掛かりは掴めない。人々は疑心暗鬼になり、普通に子供と接するだけで怪しまれる雰囲気になっていく。

そんな中、警察の捜査が厳しくなり商売がしにくくなった暗黒街のボスが動き出す。組織の下っ端たちを動員し、街の不良や浮浪者たちまで駆り出して、幼女と一緒にいる男を片っ端から調べていく。名付けて「”M” 作戦」。”M”はMurder(殺し)のMだ。

一方、警察は精神疾患の既往がある者を片っ端から調べ上げ、その過程で犯人のアパートにも足を踏み入れる。そこで照明に結わえ付けられていた靴紐の長さが大人の靴紐より短かったことからアパート内を捜索すると、子供の靴が何足も発見される。そして警察はそのアパートの住人ハロウを犯人と断定する。

その頃ハロウは次の犠牲者である少女の為に、今回も目の見えない風船売りから風船を買い与えていた。風船売りは、いま目の前にいる男が吹いている笛の音が、エルシー殺しの時と同じ旋律だと気が付く。情報が街のチンピラ達にあっという間に伝わり、彼らに確保されたハロウは、町のアウトローたちによる疑似裁判を受けさせられることになる。

 

 

映画『M(1951)』の一場面

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映画『M(1951)』の感想

 

手がかりはなくなった靴だけ。何を探せばいい? 精神を病んだ者だ。

・・・大勢いる

  刑事の台詞

 


過去に取り上げたことのある、フリッツ・ラング監督、ピーター・ローレ主演の名作にして傑作、ドイツ映画『M(1931)』のリメイク作品。

まさかアメリカでリメイクされていたとは全く知らなかったのだが、これが中古DVD屋で偶然発見したので手に入れてみた。

オリジナルにはなかったBGMがあったり、犯人が映画の最初から出ずっぱりだったり、細かい違いはあれど、白黒なのは同じ、フィルム・ノワールっぽい雰囲気も同じ。おおまかな流れも同じ。

ヨーロッパやアジア映画のアメリカ・リメイク版といえば、「単純化、娯楽化、馬鹿みたい」という具合に、改悪されてしまって不満に思うことが多いけど、今回はそういう心配は杞憂。少なくとも馬鹿みたいになってはいなかった。

雰囲気はいい。悪くない。

 

ただ、それでもオリジナルと比較すると、失敗作なのではないかと思う。

 

始まりから3/4くらいまでは別に良い。

まあ強いて言うなら、オリジナルでは口笛だったところが縦笛になっていて、「大人なのに街を歩きながら縦笛吹くかなあ」と思ったり、背中の「M」もチョークでぐりぐり書いたみたいになっているのが解せなかったりはしたけれど、それは小さなことなのでどうでもいい。

 

3/4くらい以降、正確に言えば暗黒街のボスが少女殺しのハロウを確保したあとでマスコミに電話するくだりからがいかん。

 

オリジナルのボスは、
「幼女連続殺人のせいで警察がやたらとウロチョロして商売がやりにくくなった。警察はいつまでもホシを上げられない。だったら自分達で捕まえて早く終わらせよう」
という、アウトローとしては至極真っ当な、すっきりした動機だった。

おまけに彼には美学があった。「正当な裁判を受けさせたら ”責任能力なし” ということになって無罪になってしまう。それでいいのか」という社会批判もはらんで、彼らはかなり知的な一面も見せていた。

そして一方的にリンチするのではなく、犯人に弁護士をつけて疑似裁判にしてみせるフェアなところもあって、オリジナルのボスはかなりカッコいい人物だった。

 

でもリメイク版のボスは幼女殺しの犯人を捕まえてヒーローになり、自分の悪行から世間の目をそらそうと考えている。

だからハロウを確保するとすぐマスコミに連絡し、「独占記事を書かせてやるから、いつか俺の悪行が明るみになったときに、幼女殺しの犯人を捕まえたヒーローであることを改めて記事にして俺を擁護しろよ」と持ちかけている。

疑似裁判中も、ハロウがリンチにされて殺されたりしたら擁護してもらえないから、リンチしようと盛り上がる下っ端たちをなんとか抑えてリンチを回避したいと思っている。

リアリストであり、利己的、自己保身に走った行動。オリジナルのボスが持っていた理想や悪の美学はまったくなさそう。

 

 

そしてクライマックスの疑似裁判で語られるハロウの生い立ちが更にいかん。

 

オリジナルの犯人をやったピーター・ローレは、その風貌容貌も相まって、「有無を言わせぬ狂気」があった。少女を殺さずにいられない、なぜだか分からないけど、どうしても我慢できない、という狂気があった。彼はちゃんと「ヤバイやつ」だった。

ピーター・ローレの特異な風貌と演技力からくる狂気の迫力、ビリビリと空気を切り裂くようなフリッツ・ラングの演出にかなり圧倒された。

このピーター・ローレの ”ルックス” の説得力があったからこそ「これは凡百の私なんぞには到底理解の及ばない領域だが、人間というものはこのように狂うことがあるのだ」と、感情では理解できなくても頭ではそういう風に思うことにして、とりあえずは理解したことにできた。

 

でもリメイク版のハロウにはそこまでの狂気を感じない。それどころか、ハロウを演じたデヴィッド・ウェインは、ごく普通のアメリカ人、もしかするとイケメン寄りかもしれない風貌で、その中途半端さも手伝って、ちょっと情けなくて間抜け感すらあった。

どうやらハロウは死んだ母親の影響下から抜け出せずにいるらしく、アパートの自室に母親の写真を飾っていて、その写真の前で粘土で作った女の子像の首を紐で絞めて首を切り落としたりしている。

後半で「母親は美しくて善良な人だった」と言っていたが、その飾られていた写真は、彼女が美しいか否かを問題にする以前に、オッサンなのかオバサンなのかよく分からない人が映っているだけだった。

そしてそのオッサンなのかオバサンなのかよくわからない母親に、「男というのは生まれつき邪悪で残酷だ。人間が邪悪なのではなく、男だけが邪悪な存在なのだ」と言われて育ったらしく、「小鳥や子供達を生かしていても、彼らが生きる世界は邪悪な男たちの世界なのだから、そんなところに解き放ってはいけない」と思うようになり、小鳥や子供達を殺すようになった、と告白していた。

おまけに、おそらく自分も男だからなのであろう、「自分のことも殺さなきゃいけないから、犯人になって捕まるために、仕方なく小鳥や女の子を殺してたんだよおおお」みたいに取れる発言もしていた。

 

ここで私は、その理屈でいくのなら世界中の男を殺せばいいじゃんと思った。その理屈で罪の無い方を殺すなんてただの言い訳。自己欺瞞も甚だしい。

そんなワケのわからんこと言ってるくせに、突如「自分でもどうしようもないんだよおおおー」とか言われても、「なんだかなー」と思って理解もできないし感情移入もできなかった。

 

 

ついでに更に言えば、弁護士も良く分からなかった。

マスコミを利用してヒーローになろうとしているボスに、「(リンチにされてハロウが殺されたら意味がないから)リンチを回避しろ。みなを説得しろ」と言われて演説をぶつ。

これがかなりのアル中で、説得終盤では「彼(ハロウ)は善人だ」と言い出したり、「俺たちだって悪いことしてるだろ」と言い出したりと、強引な論理展開で聴衆を説得出来ず、結局はハロウのリンチを後押しすることになってしまってボスに射殺される。

その弁護士の発言を聞いていると、どうやら彼は彼なりに悩みを抱えているようで、子供の頃は正義の味方に憧れて弁護士になったのに、自分がこんな風になってしまったのはボス、あんたのせいだ、と言っているようにも聞こえて女々しい(はい差別語)。

おまけに「つらいよー、生きるのってしんどいよー、思ったようにいかなかったよー」ってハロウと弁護士が一緒になって騒ぐもんだから・・・ついていけなかった。

 

というわけで、リメイクの方は自分勝手なジコチューな連中しか出てこない。

 

 

そんな感じで感情移入できるキャラクターが誰もいなくて、映画のテーマすら見失う始末。

オリジナル版のテーマは実に分かりやすい。今でも問題になることの多い、「人を殺しても、精神障害と認定されたら無罪放免なのはおかしいのでは」というものだった。オリジナルではそれがブレずに一貫していた。

でもリメイクの方は、ハロウの犯行の動機を変に理屈付けしようとしたり、弁護士や果ては野次馬のアウトロー達にまで喋らせたせいで、ラストでとっちからかって、何がしたいのかよく分からなくなっていた。

 

この映画、何を訴えたかったのかなあ。「子育てって大事」って話だったんだろうか。

 

 

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