題名 ガス燈(GASLIGHT)
監督 ジョージ・キューカー
出演 シャルル・ボワイエ、イングリッド・バーグマン、ジョゼフ・コットン
上映時間 114分
制作年 1944年
制作会社 MGM
制作国 アメリカ
アカデミー主演女優賞 イングリッド・バーグマン
観ると精神的苦痛で顔が歪む。わたしは終始、沈痛な気持ちになり、しかめっつらで観た。と言ってもそれは、心理面で非常によく出来た映画だからであって、駄作だからじゃない。
あー、こんな風に扱われたら誰だって鬱になって気が狂ってしまう。
時は「ガス燈」の時代。ロンドンのソーントン・スクエアで、著名な女性オペラ歌手アルキストが殺された。未解決のまま犯人は見つからず、アルキストの姪ポーラは事件を忘れるためにイタリアへと旅立つ。
それから10年。叔母同様、声楽の勉強をしていたポーラは、授業でピアノ伴奏をしていた男グレゴリーと恋に落ち、知り合ってわずか半月で結婚する。結婚後グレゴリーは、アルキストが殺されたロンドンの家で暮らすことを希望。叔母の死にトラウマを抱えるポーラは気が進まないながらも、愛の力を信じてソーントン・スクエアへ戻って来る。
ロンドンでの結婚生活が始まるが、間もなくグレゴリーの態度が豹変。ポーラはグレゴリーから精神病扱いされ、徐々に本当に精神が不安定になっていく。
街で見かけたポーラに往年のオペラ歌手アルキストの面影をみとめたキャメロン警部補は、10年前のアルキスト殺害事件の資料を引っ張り出して捜査を開始する。
キャメロン警部補の推理により、アルキスト殺害事件の犯人とその動機が明らかになり、最後はポーラも救われるのだった。
心理虐待が本作のテーマ。全く正常な人に対して様々な小細工をし、本人にも周囲にも、あたかもその人が異常であるかのように思わせて精神的に追い詰めていく虐待手法を、心理学用語で「ガスライティング」というらしいが、それはこの映画の題名『GASLIGHT(ガス燈)』からきているらしい。
心理学用語になるくらい、確かにこの作品はよく出来ている。
この映画では、夫であるグレゴリーが妻であるポーラを精神的に追い詰めていくのだが、その具体的な方法は、
1)まず「祖母から母に受け継がれたものだ」と言ってプレッシャーをかけてから、カメオのブローチをプレゼントした後、うまく隠してポーラが無くしたように思わせる。
2)いかにもポーラが気に入らなさそうなタイプの若い女をメイドに雇い、そのメイドの前でポーラをなにかにつけて世間知らずの子ども扱いをし、ポーラの自尊心を傷つける言動をする。
3)精神的に不安定と決めつけて病気扱いをし、メイドたちにもそう思わせ、家から一歩も出ないようにいいつける。
4)久しぶりに劇場に誘って外出できると喜ばせておきながら、壁の絵がなくなっていることをポーラのせいにして責めたて、外出を取りやめる。
5)音楽会に招待されて二人で参加するが、ピアノ演奏中に大勢の招待客のいる中で「時計がない」と言い出し、ポーラのバッグから時計を取り出すという、手品まがいのことまでやっている。
「忘れたの?」「また忘れたのかい?」「また覚えていないんだね」「ほらごらん、思い出したかい?」と実にこまめに執拗に畳みかけられる。どれもポーラに心当たりがあるはずもないが、ポーラは自分を疑い始めているので「わたし・・・がやったのかしら・・・」と、どんどん自信がなくなってしまう。
しかもグレゴリーはこういったことをいちいち他人の面前でおこない「奥様は(彼女は)頭がヘンだ」と周囲に思わせる。たとえば絵が無くなった時なんてメイドを呼びつけ、「奥様はなにか問題があるんだな」と暗に思わせることに成功している。
その上それとは別に、グレゴリーが夜中出かけると、なぜかガス燈の火が細くなって部屋が暗くなったり、屋根裏で物音がしたりして不安になるが、メイドに「物音がするわよね」と聞いても、そのメイドは耳が遠いので「聞こえません」と言われてしまう。
「わかるわかる」とか「そうね」と同意したり共感してくれる人が誰もいないポーラは、自分を取り戻すきっかけすら奪われている。
度重なる出来事をすべて自分のせいにされ、孤独の中のポーラはどんどん自信を失い、本当に精神が病み始めてしまうのだった。
いやー、おっそろしい映画だった。これは病む。鬱には絶対になる。
旦那グレゴリー役のシャルル・ボワイエが名演。
登場からしばらくは、薄ら笑顔のいかにも腹に一物持っていそうな胡散臭い男として登場して、案の定、作り笑顔でポーラを口説き、結婚した途端に「さあて!」とばかりに豹変する。キライ。
時々急にスイッチが入ったみたいにヒステリックに怒りだしたりするところも怖い。で、「ああいけない、本性がでちゃった」とばかりに今度は猫なで声で真逆方向にスイッチ入れ直したりして、さらに怖い。キライ。
静かに、親切ふうに見せかけて実は高圧的。完全にポーラを無能な子ども扱い。キライ。
神経質そうで二重人格的に表情をコロコロ変えて、ポーラを真綿で締めるようにじわじわと精神的に追い詰めていく。洗脳というやつもこういう風にやるんでしょうか。ああこわい。
冷たい、冷たい、冷徹な目が怖い。自分が処方した毒薬がどれくらい、どんな風に作用するかを観察しているような、冷徹な目が怖い。
そして可哀想なポーラ役には映画史に残る大スター、イングリッド・バーグマン。
病気でもなんでもないのに精神病みたいに扱われて家に閉じ込められて、自分でも「私は病気なのかしら」「精神病なのかしら」と自分を疑い始めて、精神の平衡感覚を失っていく。
そしていきなりディスるが、イングリッド・バーグマンはこの映画で、1度目のアカデミー主演女優賞をとっているのだが、どうも私には彼女の演技の上手さが分からないのだった(2度目の受賞は『追憶(1956)』)。彼女そこまで上手いかなあ。
何を見ても私には、いつもイマイチな大根女優に見えるんだよね、、、(だいぶ言い過ぎかも)。美人だけど、いっつもおんなじ顔しててつまんないし。
とまあ、こんなに怖い映画でも、コメディ・リリーフが登場して要所要所で笑わせてくれる。
ポーラがイタリアへ一人旅にでかける汽車のなかで知り合う婆さんのスウェーツさん。
彼女はポーラがロンドンに戻ってきたら、偶然ご近所さんで改めて知り合いになるのだが、まー、空気が読めない、詮索大好き婆さんとして登場。
汽車の中で、6人の妻を次々と殺して地下に埋める男の小説を読んで興奮し、嬉々とした顔で「わたし怖い話が大好きなの。”吸血鬼ベッシー”ってあだ名されてるのよ。きゃきゃきゃww」と言い(もちろん「きゃきゃきゃ」とは言わないけど)、ポーラが昔、ソーントン・スクエアに住んでいたことを知れば、「何番地かしら。昔殺人事件があったのよ。ご存じ?」と生き生きして夢中で話し、無人となっていたその事件の屋敷に10年ぶりに誰かが引っ越してきたと知れば、顔芸で笑わせてくれた上、「中を見られないかしら」と何度もでかけていく。
スウェーツさん、好きです。
二人のメイドもいい味出してるし、キャメロン警部補がダルロイ夫妻の音楽界であてがわれる女性もチョイ役でありながら出の一瞬で笑わせてくれる。脇役がいいと映画はさらに楽しめる。
脚本はうまいし、演出(監督)もうまい。個人的にはイングリッド・バーグマンがやや物足りないけど、俳優陣は脇役まで含めて申し分なく、魅力と説得力があった。
事実じゃないのにまるで事実のように仕立て上げられていく理不尽さ、絶対に相手がおかしいのにそれを他人に上手く説明できないジレンマ、嘘が事実になって積み重なっていく恐怖。
自分なのに自分を信じることができず、自分のことなのに自分で自分を守れず、自分でも自分を疑ってしまう恐怖。
こういうことって現実にもありそうだし、いつか私もそういう状況に陥らないとも限らない。「もし私がポーラだったら・・・」と考えたくなる。
そしてポーラを救ったのはキャメロン警部補の ”共感” だった。ガス燈が薄暗くなったことに気づいてくれた、ただそれだけのことが、ポーラが自信を取り戻すきっかけになった。
特別な愛でも恋でも、もちろん白馬に乗った王子様などでもなく、もっと普通のありふれたこと。
これは示唆に富んでいると思ったね。