ぱっとみ映画感想ブログ

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フランケンシュタイン(1931)

 

 

 

 

 

映画『フランケンシュタイン(1931)』のデータ

題名 フランケンシュタイン(Frankenstein)
原作 メアリー・シェリー「フランケンシュタイン」1818年
監督 ジェイムズ・ホエール
出演 ボリス・カーロフ、コリン・クライヴ、メイ・クラーク、エドワード・ヴァン・スローン
上映時間 71分
制作年 1931年
制作国 アメリカ

 

 

映画『フランケンシュタイン(1931)』のあらすじ

科学者のヘンリー・フランケンシュタインは人間の死体を掘り返し、断片を集めて繋ぎ合わせ、人工的な生命体を創造しようと助手のフリッツと共に日夜墓を荒らしていた。

残すは ”脳” だけ。ヘンリーはフリッツに命じ、大学内に保管してあるホルマリン漬けの脳を入手させる。脳は「正常」と犯罪者の脳である「異常」のふたつがあったが、正常者の瓶を落としてしまい、フリッツは異常者の脳を持ち帰る。

そうとは知らないヘンリーはその脳を使用。その肉体が雷に当たり莫大な電力が流れた途端、死人の指が動き始める。実験は成功し、犯罪者の脳を持った人工生命体が生まれる。

しかしその ”怪物” は、恐ろしい見た目とは裏腹に、優しい心を持っていた。

人の優しさを求める怪物は様々な人間達と交わろうとするが、その見た目が災いし周囲から恐れられ、誤解され、虐げられてしまう。

愛情を求めてさまよう中、花を摘む幼い少女を見かけた怪物。自分の姿を見ても恐れずに花を差し出す少女とひと時の交流を持つが、人間に無知な怪物はその少女を誤って死なせてしまう。

丁度その頃、ヘンリーは幼馴染で許嫁のエリザベスと結婚式をあげていた。そこへ怪物が現れエリザベスを襲う。ヘンリーは創造者としての責任をとるべく、自らの手で怪物を始末する決意を固める。

いよいよ人間たちの怒りを買った怪物。風車小屋に立てこもるが、村人たちに包囲されてしまう。

村人たちが風車小屋に火を放つと、小屋は怪物ごと燃え盛り崩れ落ちるのだった。

 

 

映画『フランケンシュタイン(1931)』の予告編

www.youtube.com

 

 

映画『フランケンシュタイン(1931)』の感想

それまでは地味な脇役俳優だったボリス・カーロフを怪奇映画のスターに押し上げ、怪物の造形とジャック・P・ピアースの特殊メイクが大きなインパクトを与えた傑作。

私は原作は既読(しかも2~3度)。

 

一般にフランケンシュタインと言えばあの怪物のことを思い浮かべる人が多いらしいけれど、フランケンシュタインは怪物を生み出した科学者の名前であって、怪物自身に名前はない。夏目漱石の ”猫” みたいな感じで「名前はまだない」のだ。

彼はあまりの醜さに名前を付けてもらう暇もないほど、あっという間に嫌われ、憎まれてしまう。

 

その上やはり一般的にフランケンシュタインの ”怪物” は、「あー」とか「うー」とか言って両腕を前に突き出し、鈍重かつ緩慢な動きでノッシノッシとこちらに向かって歩いてきて「こわいー」みたいなイメージでとらえられているけれど、こちらも違う。

原作の怪物は極めて知性的で、最初は言葉が分からなかったのに、ある家の納屋みたいなところに1年以上も隠れ住んでいるときに、壁の隙間から見える一家の語らいを見たり聞いたりしているうちに言葉を覚え、なんとミルトンの『失楽園』まで読みこなせるようになってしまう超人なのだ。

原作を読んだ時に「こいつぁ設定に無理があるな」と思った。それくらい超人的な頭脳を持っているのだ。

 

それだけでなく心も繊細。

原作では、生みの親に拒絶され、捨て子のような運命にさらされ、さらには全人類にまで拒絶されて、その孤独の中で愛を求めて彷徨しつづける哀しい運命に打ちのめされて、最後は

「自分も伴侶が欲しい、同じように人工的に作られた伴侶が欲しい、同じ境遇なら自分の気持ちを分かってくれて、寄り添って慎ましく生きていけるかもしんない」

と言ってフランケンシュタインに ”怪物女バージョン” を作るように頼み、それも断られ、絶望の中北極に向かうというムーブを決めるお方。

 

だから今回、映画を見るにあたって私は少し心配になった。世間一般のイメージのように、頭の悪い、化け物みたいな怪物みたいな描かれ方をしてるのかな、だとしたら嫌だな、と。

結論を申し上げれば、確かに頭は悪そうで、「あー」とか「うー」とかいう具合で言葉を喋れない設定にされていたので、やはり世間のイメージ通りの描かれ方だった。

でも、心の優しさに関しては映画でもきちんと拾われ、描かれていたと思う。

原作でも印象的だった、音楽に心を奪われる場面もあった。原作だとバイオリンだったと思うけど、映画ではギターになっていた。

そしてなにより、生まれて初めて偏見なく普通に接してくれた少女との悲しい交流。この「普通」というのがとても大事。でも怪物を当たり前の人間として接してくれたこの少女は、まるでその行為が無駄だったかのような最期を迎えてしまう。。。「二十日鼠と人間」かよ。。。

カナシイ。

 

それに比べてヘンリー(フランケンシュタイン)はなんだ。結婚式なんか上げてる場合か! 自分が自然の摂理に背いて生み出した生命を、「怪物だ!」とか言って拒絶して、責任感のかけらもないとんでもない男だ。

怪物は孤独で愛を求めても得られず悲しんでいるというのに、幼馴染のエリザベスと結婚って、怪物に襲われてしまえ!

いや、実際襲われていたけど当然だよ! それだけのことをしでかしたんだから。神になろうだなんて、実におこがましい。呪われてしまえ。

 

まったく、マッドサイエンティストとしての自覚が足りないフランケンシュタインにはがっかりだよ。原作では彼なりに責任を取って、ずっとマシだったのに。