
- 映画『ディミトリアスと闘士(1954)』のデータ
- 映画『ディミトリアスと闘士(1954)』の詳しいあらすじ
- 映画『ディミトリアスと闘士(1954)』の予告編
- 映画『ディミトリアスと闘士(1954)』の感想
映画『ディミトリアスと闘士(1954)』のデータ
題名 ディミトリアスと闘士 (Demetrius and the Gladiators)
監督 デルマー・デイヴィス
出演 ヴィクター・マチュア、スーザン・ヘイワード、ジェイ・ロビンソン、マイケル・レニー、デブラ・パジェット
上映時間 101分
制作年 1954年
制作国 アメリカ
映画『ディミトリアスと闘士(1954)』の詳しいあらすじ
前作(『聖衣(1953)』)でマーセラスとダイアナを処刑したカリギュラは、イエスの赤い衣こそが不死の秘密に違いないと、衣を持ち去ったディミトリアスを探すよう命ずる。
確かに衣はディミトリアスとペテロの元にあった。布教の旅に出るペテロから、改めて衣を預かったディミトリアスは、キリスト教徒が集まる集落へ向かう。ところが愛するルシアを守ろうとローマ兵と戦ったことで裁判にかけられ、闘士として養成所に送られてしまう。
ところがディミトリアスは闘う意思を見せず、カリギュラの不興を買い、トラとの対決させられ瀕死の重傷を負う。
次期皇帝クローディアスの妻メッサリナの看病もあって全快したディミトリアスは、カリギュラが衣を探していることを知るが、口を割らない。また、メッサリナの寵愛を受けたカリギュラだったが、その誘惑もはねつける。
一方、ディミトリアスが闘士の養成所に入れられていることを知ったルシアは、会いたい一心で踊り子たちの一団に加わり、養成所の宴に参加する。再会を喜ぶ二人だったがメッサリナの嫉妬を買い、二人は引き裂かれる。その途端、他の闘士たちがルシアを慰みものにしようとするが、ディミトリアスは手も足も出せず、神に祈るしかない。しかしその声は神に届かず、ルシアは死亡する。
イエスに対する信仰を失ったディミトリアスは、翌日の試合でルシアを死に追いやった闘士たちをひとり、またひとりと倒していく。圧倒的な強さを見せたディミトリアスは、カリギュラに向かってイエスとの決別を宣言。すると自由民となることを許され、護民官の任をまかされる。イエスに失望したディミトリアスは、異教の神イシスに仕える巫女でもあるメッサリナと関係を持ち始める。
メッサリナとの快楽に溺れるディミトリアスの元へ、ペテロが訪ねてくる。しかしディミトリアスはペテロに向かって、イエスを悪しざまに罵しる。
不死を欲するカリギュラは、ディミトリアスを司令官に任命し、ペテロが持つ衣を探させる。司令官の鎧を身につけたディミトリアスが教徒が集まる集落へ行くと、死んだはずのルシアが衣を抱いて横たわっていた。あの晩からルシアは石のように固まり、決して衣を離そうとしないのだった。
そのルシアの姿を見たディミトリアスは神に許しを請う。するとルシアが目を覚まし、ディミトリアスに優しく語りかける。イエスへの信仰を取り戻したディミトリアスは、衣を手にカリギュラの元へ向かう。
衣に魔力などないと知ったカリギュラは怒り狂い、再びディミトリアスを闘士として闘技場に立たせる。近衛兵たちの嘆願も虚しくディミトリアスは殴り倒され、怒った近衛兵の槍がカリギュラを貫く。近衛兵たちはカリギュラから冠を奪いクローディアスにかぶせ、ここにクローディアス皇帝の治世が始まる。
クローディアスは即位の場でキリスト教徒の容認し、ディミトリアスに ”最後の任務” として、その朗報を伝えるため教徒の集落へディミトリアスを行かせるのだった。
映画『ディミトリアスと闘士(1954)』の予告編
映画『ディミトリアスと闘士(1954)』の感想
以前感想を書いた『聖衣(1953)』の続編。私は『聖衣』はあまり好きじゃなかったけれど、ヴィクター・マチュアがちゃんと主役なので見てみた。
話を簡単にざっくりまとめると、ディミトリアスがイエスへの信仰を失くし、それを取り戻す話。
『聖衣』はキリスト映画の名作のひとつなのだろうと思うけれど、私はこっちの方が好きだった。
私はキリスト教徒ではないし、キリストに限らず個別の神を信仰したりしていない。そんな私からすると前作は、なぜ彼らがキリストに傾倒するのかが分からなかった。
詳細は こちらに 書いたけれど、だってこの映画の登場人物たちは ”イエスと目が合った” とか ”自分が呪われたと勘違いし、その後「呪いが溶けた!奇跡だ!」と思い込んだ” とかで、私にはちょっと理解できなかった。
でも今作は、すでに信仰状態にあるディミトリアスが、それを一旦失い、のちに取り戻す話なので、宗教とか信仰とか関係なく理解できる。
信仰を失ったディミトリアスの心境は、「こんなにイエスを信じて善良に生き、イエスに(心理的に)従い、尽くしているのに、好きな女のピンチすら助けてくれない神ってなんなんだ! 」というもの。
しかもその女は死んでしまうのだから、「神なんか偽物」と思うのは無理ないことだと思う。
さらに言えば、自分の願いを叶えてくれなかったという利己的なことだけでなく、「神はなぜこのような悲劇を許すのか」「神はなぜ悪を野放しにしているのか」という、一段上の疑問にも駆られてしまうだろうと思う。
ディミトリアスの心境もおそらくこういうもので、ルシアを失ったとたん、グレてしまった。なんてバカバカしい、俺、今までなにやってたんだ、どうでもいいや、と。
でもそんなディミトリアスも、心の底では神を「信じたい」「信じたかったのに」という思いがあったのだろうと思う。
こうして書いていると、まるでホストやホステスに入れあげる人たちみたいな気がしてきた。「信じてたのに・・・」みたいな。
悪い男(女)だって薄々は分かってる。きっと私の(俺の)モノになってくれることはないだろう。でも信じたい。嘘じゃないって思いたい。だから信じる、みたいな。
で、やっぱり期待を裏切られて、でも好き、みたいな。見返りを求めなければ、好きでいてもいいでしょう、って。
イエスと信徒。信じていられるうちは幸せ。宗教とは片思いなのだろうか。
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