
- 映画『まごころを君に (アルジャーノンに花束を)』のデータ
- 映画『まごころを君に(アルジャーノンに花束を)』のあらすじ
- 映画『まごころを君に(アルジャーノンに花束を)』の予告編
- 映画『まごころを君に(アルジャーノンに花束を)』の感想
映画『まごころを君に (アルジャーノンに花束を)』のデータ
題名 まごころを君に (アルジャーノンに花束を)(Charly)
監督 ラルフ・ネルソン
原作 ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」1959年
出演 クリフ・ロバートソン、クレア・ブルーム、リリア・スカラ、レオン・ジャニー
上映時間 103分
制作年 1968年
制作国 アメリカ
アカデミー賞 主演男優賞(クリフ・ロバートソン)
映画『まごころを君に(アルジャーノンに花束を)』のあらすじ
頭が良くなりたい知恵遅れの青年チャーリーは、夜間学校に通ったり、字を書く練習をしたり、日々の努力を怠らない努力家だ。キニアン先生の推薦で、大学の研究所に行って研究の手伝いもしている。普段はパン屋で働いていて、仲間たちとはいつも楽しく、毎日笑い声が絶えない。
ある日チャーリーは大学のストラウス教授とネマー教授の提案で、頭が良くなる手術をしたネズミのアルジャーノンと迷路で競争することになり、あっさりと負けてしまう。教授たちはそろそろ同じ手術を人間にしたいと考えていて、その対象にチャーリーを選ぶ。頭が良くなるのが念願だったチャーリーは大喜びだ。
手術を受けたチャーリーは、日に日に頭が良くなっていく。スペルを間違えずに書けるようになり、会話のレベルがどんどん上がり、学者なみの知識が身につき、あれよあれよとキニアン先生をも追い越していく。そしてチャーリーはキニアン先生への恋心も自覚する。
チャーリーの変化があまりに急すぎて慎重になるストラウス教授だったが、チャーリーの成果を学会で華々しく発表するつもりのネマー教授は聞く耳を持たない。ストラウス教授の心配通り、実際チャーリーはパン屋の仲間とうまくいかなくなっていたし、キニアン先生に告白して断られ、力づくでモノにしようと床に押し倒し、先生に拒絶されたりしていた。
それでもキニアン先生はすぐに思い直してチャーリーを受け入れ、二人は愛し合うようになり、とても幸福な時間を共有する。
いよいよ学会シンポジウムの時がやってくる。高らかに成果を発表する教授たちだったが、チャーリーだけは様子が違っていた。聴講する学者たちから人類の未来に関する質問攻めにあい、次々と簡潔にこたえていくチャーリーは、最後に自分からも学者たちに質問を投げかける。
「僕の未来は?」
実はチャーリーは、自分より先に手術を受けたネズミ ”アルジャーノン” の知能が急速に衰えて死ぬのを見たことから、自分も同じ運命をたどると知っていたのだ。
現実を受け入れたチャーリーは、自分の知能が低下するのを防ぐべく、不完全だった教授たちの論理を完全なものにしようと全力を傾ける。しかし運命はチャーリーの味方はしなかった。
※ 教授の名前に関して、原作では「ニーマー教授」だったけれど、映画では「ネマー教授」と字幕が出ていたので字幕に従った。
映画『まごころを君に(アルジャーノンに花束を)』の予告編
映画『まごころを君に(アルジャーノンに花束を)』の感想
有名なSF小説 『アルジャーノンに花束を』 の映画化作品。中編と長編の二種類があって、中編がヒューゴー賞を、長編がネビュラ賞を受賞した。
日本初公開時の邦題は『まごころを君に』だったけれど、DVDなどではいつの間にか原作と同じ『アルジャーノンに花束を』になった。
物語をすごく簡単に言うと、知恵遅れの青年チャーリーが、特別な手術を行った途端みるみる知能が発達していき、あっという間に天才のレベルにまで達し、一気に世の中の事が高度に理解できるようになる。しかしその効果は短期間で失われ、急速に元の知恵遅れの時の状態に戻っていく。
そんな特殊な経験をしたチャーリーと、周囲の人々との関係、ネズミの友達アルジャーノンのこと、キニアン先生との恋愛の行方、そしてチャーリーの未来やいかに、という話。
これほど有名な名作小説だと、イメージが壊れるから見たくないと思う人も多いと思う。
実際、私は映画と本とでどちらか一方を勧めるとしたら断然「本をよんだ方がいい」と断言する。そして映画の方は、「見てもいいけど、見なくてもいい」と答える。
じゃあ映画はダメだったのかと言うと別にそうではない。映像とか演出が古臭いのは否めないけれど、それでも私は「決して悪くない」と思った。
というのも、原作小説の素晴らしいところは、「知恵遅れの青年が手術によって天才になる」という特殊な話にも関わらず、「これは私の物語なのだ」と思えるところにある(と私は思っている)。
言い換えれば今作は 「人が賢くなっていき、そして衰えていく物語」なのであって、その途中で恋に気づき、愛し合い、その愛や能力を失うことを恐れたりするという、誰にでも起こりうる話。
人は誰でも赤ちゃんからスタートして、成長して、頭もよくなって、色々なことを判断できるようになるけれど、年と共にやがては衰えて、例えば「痴呆になる」とかいう感じに、自分がやっていることが何なのか、今目の前で起こっている出来事をきちんと理解できているのかどうか、自分の事なのに分からなくなる時が来るかもしれない。
いや、痴呆まで極端じゃなくて、健康に長生きできたとしても、生きるという事は衰えることなので、「昔は出来ていたのに今は出来なくなった」とか、「昔はみなが一目置いてくれていたのに、今ではすっかり馬鹿にされている」とか、「若者たちが、衰えた自分を憐れむような目つきで見る」 みたいなことは、いかにも普通にありそう。
出来ていたことができなくなる。理解できていたことが理解できなくなる。
怖い。むかしむかしの高校時代、この小説を初めて読んだ時、私は心底身に染みて「これは私の話なのだ」と思って震えたのだった。
そして映画版も原作と同じように「やはり私の話なのだ」と思えたので、「映画バージョンも悪くないな」 と思った次第。
※ちなみにパン屋の仲間たちについては、原作よりも数倍酷い連中の姿が見られる。やっぱり客観的に映像で見せられると、、、本当に酷い連中で腹が立って腹が立って、許せないなと思った。私は絶対にこういう事には加担しない。
他にも見どころとしては、チャーリーとキニアン先生が恋愛関係になった途端に演出がガラリと変わって、スプリットスクリーン(画面が何分割かされるやつ)やスローモーションが多用されて、いきなりエッジの効いた作品みたいな映像がくりひろげられるところが面白い。まるで別作品になったかのようで、これにはだいぶ意表をつかれた。
スプリットスクリーンは、60~70年代に流行っていたのかな? 当時の映画でちょくちょく見かけるけれど、少しトリッキーな画面になるから、格好いいような、でも今となってはちょっとダサいような、なんかこそばゆい感じ。
でもこれが良くて、突如訪れた自分の幸せを全力で楽しんでいる感じがバシバシ伝わってくる。演出としては唐突だけど、チャーリーの青春だって唐突に訪れたわけだし、これはありな演出なんじゃないかと思う。
そしてその分割された画面の中では、バイクにまたがるワイルドなチャーリーの姿も拝見できる。革ジャンを着て、だいぶワイルド。青春満喫。
しかもその革ジャンの背中に書かれた彼の名前「チャーリー」が印象的。
そういえば昔、『レベルポイント(1979)』という映画で、リッチーという少年役のマット・ディロンが乗る自転車についた旗に、「リッチー」って自分の名前が書いてあったことにびっくりして「名前ww」って思った時以来のオドロキ。
名前をねえ。書くかなあ。デカデカと。アメリカ人って、不思議。
そして最後の最後、映画のラストが大変素晴らしかった。
ブランコに乗るチャーリーの映像から突然はじまるエンドロールが無音なの。
無音にはやられた。
↓ 映画DVDはなんと絶版。中古しかなかった。

