ぱっとみ映画感想ブログ

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ベン・ハー(1959)

 

 

 

 

 

映画『ベン・ハー』のデータ

題名 ベン・ハー (Ben-Hur) 
監督 ウィリアム・ワイラー
脚本 カール・タンバーグ、ゴア・ヴィダルほか
原作 ルー・ウォーレス 「ベン・ハー」 (1880)
出演 チャールトン・ヘストン、スティーブン・ボイド、ジャック・ホーキンス
上映時間 212分
制作年 1959年
制作会社 MGM
制作国 アメリカ

アカデミー賞 11冠(作品、監督、主演男優、助演男優、美術、撮影など)

 

 

映画『ベン・ハー』の詳しいあらすじ

イエス・キリストが生まれてから死ぬまでの間のイスラエルが舞台。ユダヤの王子ジュダ・ベン・ハーと、ユダヤを支配するローマ人の幼馴染メッサラの確執を、迫力満点に描く。

幼い頃に幼馴染だったユダヤの王子ジュダとローマ人メッサラ。大人になって再会するとメッサラはジュダにユダヤを裏切ってローマに協力するよう言ってくる。それをジュダが断ったことから確執に発展。ジュダは奴隷の身に落とされ、母と妹は牢に入れられてしまう。ジュダはメッサラへの復讐を誓う。

奴隷として砂漠を連行されガレー船漕ぎとなり数年、運よく将軍アリウスの命を救って彼の養子となり、ローマで貴族として生活することとなるジュダ。しかしメッサラへの復讐を忘れてはおらず、イスラエルに戻る決心をする。

故郷へ帰る道すがら、イエスを探すバルタザールや、戦車レースに情熱を注ぐアラブの族長と出会う。故郷に戻ったジュダは、母妹の行方を捜すためにメッサラと対峙し、「母と妹を探して自分の元に返せ。そうすれば復讐の誓いを忘れてやる」と凄む。

実は母妹は牢でライ病を発症し「業病の谷」に追放されていた。使用人のエスターから「二人は死んだ」と聞かされたジュダは、悲しみのあまり改めてメッサラへの復讐の念を深める。

 

・・・・・・ここでインターミッション・・・・・・

 

アラブの族長の助けもあって、二人は戦車レースで対決することになる。メッサラはあの手この手で卑劣な行為を繰り返すが、その攻撃をかわしたジュダが優勝し、ピラトに祝福される。落馬したメッサラは致命的な重傷を負い瀕死の中、ジュダの母と妹がまだ生きていて、業病の谷にいると告白する。

ジュダは業病の谷へ母妹を訪ねるが、二人は会うのを望まなかった。その帰りにジュダはバルタザールと再会する。イエスに会うよう誘われるがジュダは断り、ピラトに会いに行く。そこでジュダはローマ市民であることを放棄したため、ピラトに追放されてしまう。

再度母妹に会うため業病の谷に向かったジュダは、二人の病気を治してもらおうとイエスを探すが、イエスはすでに囚われ磔にされる直前だった。イエスの姿を初めて見たジュダは、昔、砂漠で水をくれた人物がイエスであったことを知る。

磔にされるイエスを見守るジュダ。いよいよイエスが絶命すると、辺りは夜のように真っ暗になり、母妹のライ病が癒え、ジュダの憎しみも消えてしまう。奇跡が起こり、病気が治った母妹をジュダが抱きしめ、物語は終わる。

 

 

映画『ベン・ハー』の感想

スペクタクル映画といえばまずはこれ。なんと言っても冒頭のOvertureだけで6分ある。そしてイエス誕生シーンを挟んでオープニングが7分くらいある。そしてようやく本編が始まる。

でもこれは「壮大な物語が始まる前の心構えの時間」なので、早送りなどせず我慢。始まってしまえば全編見どころしかないのだから。

 

話はユダヤの王子ジュダ・ベン・ハーと、幼なじみでローマ人のメッサラ、そしてイエス・キリストの物語。

いつのことだったか(遠い目)、初めて見た時はチャールトン・ヘストン(ジュダ・ベン・ハー)が主役だと思って観てたから、映画の終盤で

「??? これは一体・・・ベン・ハーの物語じゃないの? なんか急にイエスさまの映画みたいになってるじゃん。へんなの」

と思った。

でもそれもそのはず、この映画はキリストさまのお話なのだった。その証拠に原作小説の題名は「Ben-Hur: A Tale of the Christ」だし、映画の原題もよく見ると「BEN-HUR」に続けて「A Tale of the Christ」となっていて、やはりイエスさまの物語なのだった。

 

というわけで、イエスが出てくる、あるいは存在が描かれるシーンと、映画での大体の時間を抜粋しておく。

① イエス生まれる(東方の三賢人が祝福)(前篇 0:08:25~)

② イエスは「父の仕事を手伝う」と言って、父ヨセフの仕事を手伝わない。(前篇 0:15:00~)

③ 奴隷として連行され、家の前を通ったジュダに手渡しで水を与える。(前篇 1:01:05~)

④ 説教のため、人々が集まる丘に立つ。山上の垂訓。(後篇 0:45:40~)

⑤ 裁判からゴルゴダの丘まで。(後篇 1:04:00~)

たしかこんなもんかと思う。

 

イエスが出てくるシーンは非常に少ないけれど、冒頭からラストまで、要所要所にさりげなく出てくる。このイエスの描き方がニクイ。

映画はジュダ目線で進んでいくが、途中でジュダはイエスと会ったり、ニアミスしたりする。その時観客の私たちは「あ、イエスは今ここか」みたいに、イエスの足跡を確認できるようになっている。

「あ、生まれたんだな」からはじまって、「お、イエス、自覚出てきたな」とか「ははあ、道を探してるな」とか、「覚醒したな」とか、「布教活動がうまく行きはじめてるな」とか、「問題になってきてるなあ」とか、「いよいよかあ」とか。

 

この、イエスの描写のさりげなさは徹底されていて、最後まで顔が映らない。例えば奴隷として連行されるジュダに水を与える時は、手と後姿しか映らない。水をもらったジュダがイエスを見上げる表情が映るだけ。山上の垂訓のシーンも、超遠方に立っているのが分かるだけ。

観客にはイエスを見せずに、イエスを周りの人物の表情をじっくり見せて、その演技を通してイエスの神性を表すという、うまい演出。感心した。

 

ついでに言えば、メッサラの部下が地下牢にジュダの母妹を探しに行き、二人がライ病に侵されていることが発覚するシーンでも同じ演出方法が使われていた。ライ病の二人を映さずに、二人を見た部下たちの表情で病気の凄まじさを想像させていて、上手い。

 

イエスの事ばかり書いているけど、アンドリュー・マートンのスタント演出で有名な海戦シーンも、やはり超有名な戦車レースシーンも、もちろん凄い。

ガレー船同士の戦闘の場面は25分位続くけれど、ミニチュアとは思えない大迫力だし、

有名な戦車レースの迫力の凄さは筆舌に尽くしがたい。「これ、誰か死んでるよね」っていうレベル(実際は誰も死んでいないらしい)。

 

でも、個人的にはそれぞれのシーンが始まる “前の” シーンを強調したい。

まずガレー船の海戦シーンの方だけれど、戦闘に至る前の、船底の奴隷たちが漕いで漕いで漕ぎまくるシーンが、戦闘シーンに匹敵するほど圧巻。

木槌を打ち付ける音のテンポに合わせて漕ぐのだけど、木槌のテンポがどんどん上がり、漕ぐスピードがぐんぐん上がっていく。スピードが上がるにつれて脱落していく奴隷たち。それを冷徹に観察するアリウス。

丸3分間、大勢の裸の男たちが船を漕いでいるだけなのに、すごい迫力。

 

そして戦車レースの方も、レースが始まる前のシーンの凄さを推したい。

広い競技場を、4頭立てのチャリオットが9騎、ただただ並足でぐるっと一周するシーンをじっくりと時間をかけて見せていくあたりがすごく豪華。こちらもやはり時間的に3分間もの時間を費やしている。

 

なんてリッチでゴージャスなんだろう。分かりやすい戦闘シーンだけに金と労力をかけ、その前段のシーンなんて力を入れないのが現代的というもの。だけど「豪華」とか「豊か」というのは、裏を返せば「無駄」なんだから、こういうことに時間と労力と莫大な金をかけるのが「文化的豊かさ」なんだろうと思うんだけど、もうそういうの無理なんだろうか。

 

 

映画『ベン・ハー』の隠れゲイ映画ぶり

そして、これは無視できないのだけれど、「ジュダとメッサラの同性愛説」の方。

実はジュダとメッサラは昔、両想いの同性愛カップルで、久しぶりに再会したメッサラは「また会える」って喜んでいたのに、ジュダは冷たくあしらった、それで因縁の対決と化していったという、実はこの映画はそういう映画だという説。

説も何も、このエピソードはDVDについているメイキング映像でじっくり語られている事実。この設定を入れたのが脚本家のひとり、ゴア・ヴィダル(「ベン・ハー」の脚本には5人が関わっているらしく、諸事情あって彼はクレジットされていない)。

ヴィダルは自分がゲイだから、張り切ってゲイ映画にしようとして、ワイラー監督に「これはベン・ハーなんだぞ」って注意されたと。要するに「イエスさまが主役なんだぞ」と。なのに「大丈夫、わからないように書くから」って言って、ジュダとメッサラの痴話喧嘩として書いた、と言っている。

ヴィダルといえば『カリギュラ(1980)』の脚本もヴィダルなのだった。はーなるほどねー、あーねー。

そして今回知ったけれど、ゴア・ヴィダルって映画に出演もしているらしく、あの『ガタカ(1997)』の航空宇宙局長役がヴィダルだったらしい。そういう風に考えてしまうと『ガタカ』もちょっとゲイっぽい映画でもあったような気がしてくるから不思議だ(ヴィダルは出てるだけだけど)。今度見返してみよう。

 

では、映画は実際にゲイっぽいのか。結論を先に言えば十分にゲイっぽい。

 

まず最初のジュダとメッサラの再会シーン。昔を思い出して槍投げをするシーンがあるが、メッサラは目をキラキラさせちゃって、恋する男の顔をしていた。「ジュダ、立派になったなあ、カッコいいなあ」って感じ。でもジュダの方は特にそういう感じではなく、普通に友人と再会を喜んでいるという印象。

 

このメッサラという男はものすごく傲慢で、ユダヤ人のジュダに向かって、「少数のユダヤ人の命が何だと言うんだ?」と言っていた。なのにジュダにだけは「一緒にローマに来い」と誘っている。

それはジュダがユダヤの王だから利用しようという欲得ではなく、「一緒に出世しようぜ!皇帝の隣に一緒に立とうぜ!」みたいなノリ。

なのにジュダは、「オレがユダヤを裏切るわけないだろ!」って言って無下に断る。

それでメッサラが超怒る。好きなのにフラれて大ショック、という構図。実際メッサラは「長年ずっと想ってたのに、、、くっそー」みたいな顔をしているように見える。

 

さらに最期の戦車レースの後の、メッサラが死にゆくシーンは、もっとそれっぽく見える。

瀕死のメッサラは、「ジュダは来る!あいつは必ず来る!!」って言って、頑なに手術させないのだけれど、この時のメッサラは、もう命がけで愛する男を待ちわびるっていう感じ。

今すぐ片脚を切断しないと死んでしまうって言ってるのに、「片脚で奴と会うわけにはいかん」とか息も絶え絶えに言っちゃって、ジュダを一目見ないと死ねない感じ。

愛憎渦巻くゲイ・カップルの、壮絶な別れのシーンだと思うとちょっと怖かったよね。

 

そして最後に、戦車レースでジュダの隣に現れる従者の少年がアヤシイ。怪しすぎる。

物語には何の関係もない少年が、レース間際になると突然現れてやたらと目立つんだけど、これが美少年。レース後にはジュダが肩叩いて抱き寄せたりなんかして、少年、超嬉しそうなの。最後しっかりアップになったりなんかして。とにかく目立っている。

なんで? ストーリーにはなんの関係もない少年なのに、すごい好待遇じゃん。

他の騎乗者の従者は別にごく普通の男たちなので、これは実に意味ありげ。これ見ると、監督もそのつもりでキャスティングしたな、と思わざるを得ない。「ヴィダルの希望に応えてやるか」みたいな感じでしょうか。

ジュダったら、メッサラを捨てて、あんな子供みたいな美少年に乗り換えていましたとさ。ショタになっていましたと。

そりゃメッサラも怒って戦車から落としたくもなるわ。

 

 

実は、ジュダを演じたチャールトン・ヘストンは、そんな裏設定があるとは知らずにジュダを演じていて、スティーブン・ボイドの方は知っていてメッサラを演じていたらしい。

なんか分かる。思想的にもマッチョなチャールトン・ヘストンには言えないよね。まさかこの映画が “隠れゲイ映画” だと知ってたら、もう一度ロック・ハドソンに出演依頼をする羽目になっていたかもしれない(元々オファーしていた)。

その後事情を知ったのか、ヘストンはゴア・ヴィダルが脚本にタッチしていたことは認めても、たいして関与していないと言い張っていたらしい。なんかわかる。

ま、だから何だという話ではないけれど、見る人が見ればそういう映画でもあるよ、という話。

 

 

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